●アパルトヘイト
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
アパルトヘイト
apartheid
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知恵蔵
アパルトヘイト
(林晃史 敬愛大学教授 / 2007年)
出典:(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」
朝日新聞掲載「キーワード」
アパルトヘイト
(2015-02-17 朝日新聞 朝刊 1社会)
出典:朝日新聞掲載「キーワード」
デジタル大辞泉
アパルトヘイト(〈アフリカーンス〉apartheid)
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監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
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世界大百科事典 第2版
アパルトヘイト【Apartheid】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
アパルトヘイト
あぱるとへいと
Apartheid
英語の「分離」(apartness)にあたるアフリカーンス語(南アフリカ共和国の公用語)。かつての南アフリカ連邦、およびこれを継承した南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血住民)の諸関係を差別的に規定する人種隔離政策であったが、1994年白人国家体制の崩壊とともに法律上は廃止された。
[鈴木二郎]
内容
その内容は基本的には17世紀以来のものであるが、1913年の原住民土地法に登場したこの用語が、同国の人種隔離諸政策を包括する用語として広く使われ始めたのは、国民党(NP)が人種差別を制度的に強化した1948年以降である。しかし政府はその後これを分離発展政策とよびかえた。その理由は、アパルトヘイトのもつ暗いイメージを軽減することにあった。政府によれば、伝統、文化、言語などの違う人種や種族は、それぞれ別の地域と社会に分離して、それぞれが固有の生活を営みつつ独自に発展すべきであると表向きには主張したが、その真のねらいは、少数の白人による政治的支配を維持し、安価な労働力を非白人から供給することにあった。1971年に実施されたバントゥスタン(ホームランド)政策は、絶対多数の黒人を、国土の13%にすぎない辺境不毛の地に設けた種族別の居住地域10地区に住まわせ、名目上の自治権を与えて、最終的には名目だけの独立国として南ア市民権を奪い、経済的には白人に依存せざるをえない黒人を外国籍の出稼ぎ労働者として扱おうとするものであった。黒人の反対にもかかわらず、トランスケイ、ボプタツワナ、ベンダ、シスケイの4地区は「独立」(1976~1981)させられたが、国際的には独立国として承認されなかった。そのほか、参政権、政党・組合の結成、居住、結婚と肉体交渉、就職、賃金、教育、医療、宗教、公共施設、娯楽、スポーツなど、日常生活の隅々にわたって非白人を差別する政策が、無数の法と慣行で制度化されていた。
[鈴木二郎]
抵抗と弾圧
もちろん国内での抵抗運動と海外からの支援は活発であったが、反対や違反は弾圧法規によって厳しく処罰されたり、慣行によって社会的制裁を受けた。抵抗組織の非合法化、弾圧による死亡・投獄、令状なしの拘留、亡命が日常茶飯事であった。これに対する国際世論は厳しかった。その一端は、国連における経済制裁決議、実質的な国連からの締め出し、および1960年のシャープビル大虐殺(シャープビル事件)を追悼する国連による「人種差別撤廃の日」(3月21日)制定、また南アフリカ連邦を、イギリス連邦からの脱退と南アフリカ共和国創建(1961)に追い詰めたイギリス連邦加盟諸国の政策、さらにスポーツ界の南ア・ボイコットなどに示された。
こうした国際世論と国内での抵抗が相まって南アの政財界を追いつめ、南ア政府は国際経済からの孤立を避けるためにアパルトヘイトを廃止する方向に踏み切った。この結果、制限職種、労働組合の登録、公共施設や娯楽施設の利用、教育費、スポーツチームへの参加などにおいてアパルトヘイトの一部が緩和され始めた。しかしこれも、アジア系住民、カラードと黒人を分断する方策がつねに講じられてきたのである。
[鈴木二郎]
アパルトヘイト体制の崩壊
南アフリカ政府は、1960年のシャープビル事件後アフリカ民族会議(ANC)とパン・アフリカニスト会議(PAC)を非合法化し、1970年の「バントゥ・ホームランド市民権法」、翌1971年の「バントゥ・ホームランド制憲法」により黒人の分離発展政策を推し進めた。一方、カラードとインド人に対しては1984年に人種別三院制議会を導入して参政権を復活した。この人種別三院制議会発足を契機に黒人の反政府運動は高まった。南ア政府は一部地域に非常事態宣言を発令して弾圧したため国際社会の非難が起こり、対南ア経済制裁が強化された。このためボータ国民党政権は1985年に雑婚禁止法、背徳法、翌1986年にはパス法を廃止したが、一方では非常事態宣言を全土に拡大し反政府運動を弾圧した。
1989年9月大統領となったデクラークは従来の国民党(NP)政権の方針を転換し、黒人との交渉により将来の南アフリカを決めてゆく「対話路線」をとった。この方針に基づき翌1990年2月にANC、PAC、南ア共産党を合法化し、ANC指導者(のち大統領)N・マンデラを釈放した。続いて同年5月南ア政府はANCと予備交渉を行い、6月には非常事態宣言を解除した。この結果、ANCは武力闘争停止を宣言した。翌1991年2月、大統領デクラークは国会開会演説ですべてのアパルトヘイト法を廃止すると宣言し、6月には人口登録法、原住民土地法、集団地域法を廃止した。南ア政府のこの動きに対して、EC(ヨーロッパ共同体、のちEU)、アメリカ、日本は次々と経済制裁を解除していった。
ついでアパルトヘイト廃止後の南アフリカの政体を話し合うため全18政党・組織が参加した民主南アフリカ会議が1991年12月と翌1992年5月に開催された。しかしこの交渉中、ANC系組織とズールー人を基盤とするインカタ自由党(IFP)との武力衝突がトランスバール州(現ハウテン州など)、ナタール州(現クワズールー・ナタール州)で頻発し多くの死傷者が出、交渉はしばしば中断・延期された。しかし1993年4月に多党交渉フォーラムが開かれ、26政党・組織が参加した。このフォーラムにより選挙までの移行期の政体として全政党・組織が参加した暫定政府が同年12月に発足し、同時に暫定憲法を制定した。この暫定憲法に基づき翌1994年4月、南ア史上初の全人種が参加した制憲議会選挙が実施され、5月にマンデラ新政権が樹立された。
[林 晃史]
民主化後の南アフリカ
暫定憲法の権力分与条項に基づきマンデラ政権はANC、国民党、インカタ自由党との連立政権となった。大統領マンデラは政治面では民族和解・協調を呼びかけ、経済面ではアパルトヘイト体制下で起こった白人・黒人間の格差の是正と経済制裁による経済不況からの回復を目ざした。民族和解・協調のためアパルトヘイト体制下の政治的抑圧や人権侵害の真相を明らかにし、被害者の復権を目ざす真実和解委員会が1994年12月に発足し、公聴会が開かれ、次々に真相が暴露されていった。一方、2年以内に新憲法を制定するという暫定憲法の規定に従い、1994年5月制憲議会が発足した。焦点は中央集権国家か地方分権国家かであり、後者を主張するインカタ自由党は制憲議会から脱退した。そして1996年5月に採択された新憲法では権力分与条項が削除されたため、国民党は連立政権から離脱した。経済政策では富の再配分と経済成長を両軸とする復興開発計画(RDP)が実施されたが、実施機構整備の遅れ、財源不足、人材不足からとくに再配分の実施は遅れ、黒人の新政権への不満は高まった。このため1996年6月、政府は経済成長を重視するマクロ経済成長戦略(GEAR)を発表、高い経済成長率によって再配分問題も解決しようとした。
この政策転換に対し、白人の南ア財界は歓迎したが、黒人はRDPからの逸脱として激しく非難した。一方、大司教ツツを委員長とする真実和解委員会の最終報告書は1998年10月に公表された。同報告書は人権侵害を行った人物や団体を指摘し、加害者に対し刑事訴追を要求した。
RDPとGEARの実施にもかかわらず南ア経済の回復は遅く、とくに黒人の失業問題は解決せず、このため社会犯罪が激化し、このことは先進諸国の対南ア投資、企業進出が進まない大きな原因となっている。このような状況下で1999年6月に実施された第2回総選挙で、ANCが再度勝ち、ムベキThabo Mbeki(1942― )政権が発足した。マンデラはこの総選挙を機に政界から引退した。ムベキは引き続きGEARを押し進めるとともに、冷戦終結後、周縁化が進むアフリカ大陸を、援助よりは貿易と投資を通じて活性化させようとするアフリカン・ルネサンス構想を打ち出した。
[林 晃史]
『ロジャー・オモンド著、斎藤健司訳『アパルトヘイトの制度と実態』(1989・岩波書店)』▽『ネルソン・マンデラ著、東江一紀訳『自由への道――ネルソン・マンデラ自伝』上下(1996・日本放送出版協会)』▽『伊藤正孝著『南ア共和国の内幕――アパルトヘイトの終焉まで』(中公新書)』
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精選版 日本国語大辞典
アパルトヘイト
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旺文社世界史事典 三訂版
アパルトヘイト
apartheid
アパルトヘイトとは,アフリカーンス語(初期移民のオランダ語の変型したもの)で“隔離”を意味し,白人がみずからの特権を維持・拡大するために,黒人を中心とする非白人の労働力を利用しつつも彼らに同等の権利を与えないように,制度的に白人と非白人を隔離することにあった。
【前史】ケープ植民地ではオランダ支配時代,すでに18世紀初めからアフリカ人の奴隷に対する差別政策が行われていたが,1814年のウィーン会議後,この地域がイギリス領になると,比較的リベラルなイギリス政府の諸施策で28年にパス法廃止,34年に奴隷解放令が発布された。保守的なブーア人(オランダ系移民とその子孫)の反イギリス感情が広まるいっぽう,1835年から始まった“グレート−トレック”(北部への大移動)での衝突を通じて,ブーア人の原住民に対する差別意識も強まった。
【形成期】1910年の南アフリカ連邦成立後,人口面で劣勢のイギリス系白人は支配体制確立をめざし,オランダ系白人(アフリカーナー)の協力を得るため,その差別政策を認めた。その結果,1911年には最初の差別立法とされる鉱山労働法,13年には白人が全土の97%を占めるようにした先住民土地法,36年にはアフリカ人の参政権を奪った先住民代表法など,数多くの諸法が制定された。
【確立期】社会全体の体制としての確立は,1948年から始まった。アパルトヘイトをスローガンに掲げた,保守的なオランダ系白人を支持基盤とする国民党が選挙の結果単独政権を獲得すると,雑婚禁止法・集団地域法・人口登録法・バントゥー教育法・公共施設分離法など,一連のアパルトヘイト法を矢継ぎ早に制定した。アフリカ諸国の独立運動に加え,世界中で人種隔離政策への非難が高まるなか,アパルトヘイト諸法を国家基盤に据えたこの国は,1961年イギリス連邦を脱退して南アフリカ共和国を成立させ,国内では人種別居住地隔離のホームランド政策を徹底させた。
【抵抗から終焉へ】アフリカ民族会議(ANC)を中心とする抵抗運動は,1960年代以降,シャープビル虐殺事件(1960),ソウェト蜂起(1976)などを通じて高まった。また1967年12月,国際連合総会は同国に対する経済制裁を採択した。対南ア経済制裁の強化(1985)に加えて,国内のアフリカ人労働組合や白人・インド人・カラード(白人との混血)を含んだ市民グループによる広範な反アパルトヘイト運動が高揚し,1980年代後半からボタ政権に対する反政府運動が高まった。1989年からのデクラーク政権はアフリカ人との対話をすすめ,90年にANCのリーダーのひとりネルソン=マンデラの釈放,非合法化されていた反アパルトヘイト組織の合法化を行い,91年6月,最後まで残っていたアパルトヘイトの根幹法である人口登録法・集団地域法・先住民土地法の3法を廃し,法的にアパルトヘイト体制が終焉した。体制廃絶に向けての経済的・社会的課題は残されているものの,1994年の全人種による制憲議会選挙の結果,マンデラが大統領に就任した。1999年6月の選挙で,大統領はANC議長のターボ=ムベキに交替した。
出典:旺文社世界史事典 三訂版
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