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イタリア・イレデンタ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

イタリア・イレデンタ
Italia Irredenta
「未回復のイタリア」の意。イタリアは 19世紀中葉の数次の独立戦争を経て,オーストリアからロンバルディアベネトの地域を奪回し,1866年にはベネチアも奪回した(→イタリア独立戦争)。しかしなおトレンチノ,アルト・アジジェ,ベネチア・ジュリアの諸地域がオーストリア領にとどまり,これら諸地域が「未回復のイタリア」と呼ばれた。1866年以降,未回復のイタリアを奪回する政治的文化的運動(イレデンティズモ)が生じ,ダンテ・アリギエリ協会が結成されたり,愛国者グリエルモ・オーベルダンによるオーストリア皇帝暗殺計画が練られたりした。また第1次世界大戦にイタリアが参戦する理由の一つともなったが,戦後これらの地域がイタリアに帰属することとなって,ようやく決着をみた。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

イタリア・イレデンタ
いたりあいれでんた
Italia irredentaイタリア語
「未回収のイタリア」の意味。1866年以後、オーストリアの支配下にあるイタリア人居住地域(トレンティーノ・アルト・アディジェ、ベネチア・ジュリア)で祖国復帰の機運が高まり、イレデンティズモIrredentismo(復帰運動)ということばも用いられるようになった。リソルジメントの精神を継承したこの運動は、当初、民衆的で共和主義的ナショナリズムを代表し、1877年にインブリアーニが創立した「プロ・イタリア・イレデンタ」はガリバルディの支持を得た組織だった。この時期の運動の先端をいったのが、オーストリア皇帝の暗殺を計画して処刑されたトリエステの愛国者オーベルダンGuglielmo Oberdan(1858―82)である。三国同盟はこの運動を抑圧したが、運動は衰えなかった。20世紀に入り、三国同盟の存続にもかかわらず、英仏への接近というイタリアの外交方針の変更とともに復帰運動の性格も著しく変わり、それはバルカンへの進出を求めるイタリア・ブルジョアジーの帝国主義的ナショナリズムに結び付くようになり、1910年の国家主義協会に合流する一要素になった。民主的で個人主義的要素はこの協会からまもなく離脱したが、ともにイタリアの第一次世界大戦への参戦を支持した。大戦後、英仏側への参戦の代償としてイタリアに約束されていたもの(ロンドン条約)の一部(トレンティーノ、南チロール、トリエステなど)がベルサイユ条約により認められた。[重岡保郎]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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