@niftyトップ

辞書、事典、用語解説などを検索できる無料サービスです。

イタリア王国【イタリアおうこく】

世界大百科事典 第2版

イタリアおうこく【イタリア王国 Regno Italico】
イタリアという地域が王国という一つの政治単位を構成するという観念がいつ生じたかを知ることは難しい。西ローマ帝国崩壊後,北イタリアに生まれた東ゴート王国ランゴバルド王国は,それぞれ部族国家,つまりゴート族ランゴバルド族の国家であった。しかし,ランゴバルドを征服し,800年に皇帝に即位したカロリング家カール大帝の場合は事情が異なる。彼はランゴバルド王国の伝統を重視し,その王となったが(774),自身は他部族たるフランク族の出である。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

日本大百科全書(ニッポニカ)

イタリア王国
いたりあおうこく
Regno d'Italia イタリア語

1861年3月に成立したイタリアの王国。サルデーニャ王国への他のイタリア諸国の相次ぐ併合によって実現された。ロンバルディアの併合は国際協定(1859年11月のチューリヒ条約)により、また他の併合(中部と南部)は無条件統合の賛否を問う人民投票により行われた。このようにイタリア王国は国民の合意に基づく近代的国家ではあったが、国民の大多数を占める貧困な農民層は統一事業から疎外され、統一国家においても犠牲にされたため、彼らは反体制に傾きがちであった。王国は、サルデーニャ王国から王家、憲法および多くの政治的、経済的諸制度を継承し、これらを全国に一方的に押し付けたため、いきおい露骨な集権的国家になった。憲法は単なる立憲君主主義であったが、創始者カブールの強い自由主義的志向が君主制を議会主義的軌道に据えたものの、憲法の保守的、反議会主義的解釈もしばしば現れた。北部資本主義の急速な発展とともに社会的矛盾も激化し、国家の不安定な基礎は、第一次世界大戦後の危機に際してファシズムを権力に導く結果になった。1946年6月、国民投票による王制の廃止をもって王国は終わった。なお、これと無関係であるが、同名の王国が、ナポレオンによって1805年から14年までイタリアの中北部地方に建設された。

[重岡保郎]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

旺文社世界史事典 三訂版

イタリア王国
イタリアおうこく
1861年2月,サルデーニャ王国を中心に建設されたイタリアの統一王国
初代の王はヴィットーリオ=エマヌエーレ2世で,初め首都はトリノ,ついでフィレンツェに置かれた。普墺 (ふおう) 戦争の際,プロイセン王国と同盟してヴェネツィア奪回(1866),普仏 (ふふつ) 戦争に乗じてローマを占領(1870)し,首都に定めた(1871)。以来,ローマ教皇庁との不和は1929年のラテラン条約まで続いた。またオーストリア領内のイタリア人居住地(未回収のイタリア)の回復を要求する運動がその後の主要な外交問題となった。1882年に三国同盟締結,さらにソマリランドエリトリアの植民地化などを進めたが,エチオピア遠征に失敗。1902年の仏伊協商を機にフランスに接近し,1911年イタリア−トルコ戦争を起こしてリビアを奪い,第一世界大戦では“未回収のイタリア”の回復を条件にロンドン秘密条約を結び,協商国(連合国)側で参戦した。大戦後国力が疲弊し,ムッソリーニのファシスト独裁国家が成立。エチオピアを武力で征し,第二次世界大戦ではナチスと結んだが敗北,戦後の1946年,イタリア共和国の成立によって崩壊した。

出典:旺文社世界史事典 三訂版
執筆者一覧(50音順)
小豆畑和之 石井栄二 今泉博 仮屋園巌 津野田興一 三木健詞
 
Copyright Obunsha Co.,Ltd. All Rights Reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

イタリア王国」の用語解説はコトバンクが提供しています。

イタリア王国の関連情報

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.

アット・ニフティトップページへ アット・ニフティ会員に登録

ウェブサイトの利用について | 個人情報保護ポリシー
©NIFTY Corporation