●ウィクリフ
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
ウィクリフ
Wycliffe(Wyclif), John
[没]1384.12.31. ラターワース
イギリスの哲学者,神学者で,宗教改革の先駆者。 1376年頃教会の批判と改革に着手。真の主権に基づかない教会の形式的権威を否定し,聖書のみを唯一の実践の基盤とし,旧約聖書を初めて英訳。清貧説教団を組織して改革思想の普及につとめた。死後コンスタンツの公会議で異端者と宣告され,著書とともに遺骨が焚かれたが,その思想は,ロラード派によって受継がれ,ボヘミアの宗教改革者フスにも影響を与えた。
出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
デジタル大辞泉
ウィクリフ(John Wycliffe)
出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
世界大百科事典 第2版
ウィクリフ【John Wycliffe(Wyclif)】
イギリスの神学者,宗教改革の先駆者。オックスフォード大学の神学者であったが,1374年エドワード3世のローマ教皇との外交交渉で次席代表を務め,初めて政界に出る。これに先立ち《命題集》(1373)を著し,教皇庁と教会に対するイングランド王権の財政上の自主権,教会に対する世俗権力の監督権を強調した。76年権力者の意をうけ,ロンドン市内で反政府的高位聖職者を俗事に汲々たる者として批判し,教会当局の忌諱にふれる。
出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.
日本大百科全書(ニッポニカ)
ウィクリフ
うぃくりふ
John Wycliffe (Wyclif)
(1320ころ―1384)
イギリス宗教改革の先駆者。オックスフォード大学に学び、同校で哲学、神学を講じた。反教皇政策をとる国王やジョン・オブ・ゴーントは、王権の優位を認めるウィクリフの利用価値を認めて保護し、1374年ブリュージュへ国王使節として教皇側との交渉に派遣。帰国後、ロンドンを中心に使徒的清貧を説き、民衆説教者としても名声を博した。教会の財産保有など現教会体制への批判を強めたため、1377年その言動がとがめられ、教皇グレゴリウス11世Gregorius Ⅺ(在位1370~1378)より、19か条に及ぶ「誤謬(ごびゅう)」の指弾を受けた。1378年教会分裂を機に教皇をアンチ・クリストと断定するまでに至る。弟子を「貧しき司祭」と称して各地に送り、民衆に福音(ふくいん)を伝え、聖書の英訳も手がけ、『教会論』De ecclesia(1379)、彼の学説の総決算『トリアログス』Trialogus(1383)を含む膨大な著作をまとめた。『聖餐(せいさん)論』De eucharistia(1381)で化体説を批判するに及び、異端的性格を明確にした。1382年、ブラックフライヤーズ教会会議Synod of Blackfriarsで、彼の主張の10か条が異端と断定される一方、前年の農民一揆(いっき)の理論的指導者ジョン・ボールとの関係が疑われ、政府高官からの保護も失い、同年ラタワースに隠棲(いんせい)。2年後の12月31日同所で死去。1415年コンスタンツ公会議での決定に基づき、1428年春彼の遺骸(いがい)は、焼かれるべく、墓より取り出され、その灰は近くのスウィフト川にまかれた。彼の教説は、イギリスではロラーズに受け継がれ、大陸ではプラハ大学のヨハン・フスの宗教思想の根幹に取り入れられるなど、それぞれの宗教改革の源流ともなっている。ウィクリフの写本が東欧で多数みいだせるのもそのためである。
[鈴木利章 2018年1月19日]
出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
精選版 日本国語大辞典
ウィクリフ
出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
旺文社世界史事典 三訂版
ウィクリフ
John Wycliffe(Wiclif)
イギリスの神学者,先駆的宗教改革者
教会大分裂(大シスマ)を機にカトリックの教義とローマ教皇の権威を批判し,教会財産の没収を主張して初期には国王の庇護 (ひご) も受けた。聖書中心主義を唱え,ヴルガタ『聖書』を英訳し,自派(ロラード派)の僧を民衆の間に送ってその教化につとめた。ワット=タイラーの乱(1381)との関係を問われてオクスフォード大学神学教授を辞し,1382年にはその教説は異端との判定を受けたが,処罰は免れた。その教説はさらにフスの教会批判を生み,死後の1428年,コンスタンツ公会議での異端宣告にもとづいて,遺骸は掘り出されて焼かれ,川にまかれた。
出典:旺文社世界史事典 三訂版
執筆者一覧(50音順)
小豆畑和之 石井栄二 今泉博 仮屋園巌 津野田興一 三木健詞
Copyright Obunsha Co.,Ltd. All Rights Reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
「ウィクリフ」の用語解説はコトバンクが提供しています。
●ウィクリフの関連情報
関連キーワード
| 高階隆兼| 世良親王| クルテアデアルジェシュ| ピサーノ| エドワード(3世)| 北畠親房| 韓国の家庭ごみ有料化| 昭和南海地震の被害| 足利義詮| エッタール修道院|