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エラム

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

エラム
Elam
イラン南西部,現フージスターン地方の古代地名。エラム人の地。スーサチョガ・ザンビル遺跡が代表的遺跡。アッカド王朝とウル第3王朝に支配されたが独立し,王の姉妹の子を継承者とする独特の母系王制が出現。前 1600年頃カッシート人に敗れたといわれる。前 14世紀末頃再興し,エラム王国を樹立,約1世紀近く黄金時代を迎え,歴代の王は「アンザン (アンシャン) とスーサの王」という称号を名のった。シュトルク=ナフンテ1世,クティル=ナフンテ,シルハク=インシュンナクらの王が領土を拡大,ペルセポリス地方まで版図に入れたが,バビロニアのネブカドネザル1世 (在位前 1124~06) に滅ぼされ,それ以後 300年以上にわたり,歴史の舞台から姿を消した。前8世紀頃再び強力な軍事国家としてエラムは登場し,アッシリアと衝突することとなり,前 640年頃アッシリア王アッシュールバニパルによってスーサを制圧され,エラムの独立は奪われた。のち,アケメネス朝ペルシアの属領となり,スーサはペルシア帝国三大都市の一つとなった。独自の言語と文化をもっていたが,メソポタミアの影響を強く受け,先史時代の美しい彩文土器や,優れた青銅製品に特徴があった。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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世界大百科事典 第2版

エラム【Elam】
イラン南西部のスーサを中心とした平野部と,イラン高原南部の山岳部から成る地域に存在した古代の国家。エラムはメソポタミアの文献に現れる名称で,もともと山岳部の地方を指していた。エラム人自身は彼らの国土をハタムティHatamti,あるいはハルタムティHaltamtiと呼んでいた。 バビロニアに隣接したエラムは,前4千年紀後半のメソポタミア南部に起こった都市革命の影響をいちはやく受けた。最近の考古学研究によれば,前4千年紀末から前3千年紀前半にかけて,イラン高原南部にラピスラズリ,紅玉髄,凍石(ステアタイト)などの貴石の採取と加工,メソポタミアやインド方面への輸出によって繁栄した一つの文化圏が存在し,この交易活動と結びついてスーサからシースタンのシャフル・イ・ソフタにいたる各地に原エラム文字が使用されていたことが証されている。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

エラム
えらむ
Elam
ティグリス川以東からザーグロス山脈一帯、現在のイラン南西部のフーゼスターン地方をさす古名。「エラム」は古代バビロニア語で東方を意味する。スーサを中心とするパルスマシュを核に、東のアンシャン、北のシマシュがその中心。
 歴史は旧石器時代から始まるが、新石器時代にはオリエント最古の文化の一つであるスーサ第1層が繁栄した。これは日干しれんがを用いた住居を有し、ヒツジや大麦なども利用し、さらに美しい彩文土器を使用した文化である。第2層ではメソポタミア文化の影響が認められ、シュメール文字に似た原エラム文字も使用されていた。すでに城壁を巡らした都市文明であり、その遺跡からはザーグロス山脈の金、銀、銅、鉛や瑠璃(るり)、ラピスラズリなどの遺物が多く出土し、メソポタミアとの関係が密接であったことを証明している。しかし、両者の関係は平和的ではなく、メソポタミアに強力な王朝ができればその支配下に入り、弱体化すると逆にエラムが侵入するという繰り返しであった。スーサで出土した、エラム鎮圧の記念物である、アッカドのナラム・シンの戦勝碑やハムラビ法典などは、両者の敵対関係と、エラムの略奪を証明するものといえる。
 紀元前9世紀にはペルシア人の侵入が始まり、前630年にはアッシリア人にスーサが破壊された。アケメネス朝ペルシア時代にもスーサは帝国の重要な三大都市の一つで、エラム語は公用語として用いられた。ダリウス大王のベヒスタン(ビストゥン)碑文には、ペルシア語、アラム語とともに、エラム語でも記録されている。エラム人の人種的帰属は現在なお不明である。[糸賀昌昭]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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旺文社世界史事典 三訂版

エラム
Elam
現在のイラン高原にあたる地方の旧称
新石器時代からスサを中心に彩陶 (さいとう) 文化をうみ,シュメールとともに栄えた。エラム人はヤペテ人系ともいわれ,シュメール・バビロニアを支配したこともある。前9世紀にペルシア人の影響を受けたが,エラム語はペルシア帝国の公用語の地位を占めた。

出典:旺文社世界史事典 三訂版
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