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オランダ商館【オランダしょうかん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

オランダ商館
オランダしょうかん
江戸時代,初め平戸に,のち長崎に置かれたオランダ東インド会社の日本支社。慶長 14 (1609) 年徳川家康から日本貿易の朱印状を得て設立した。最初は平戸の東端に建てられたが,以後何度か周辺の民家を買収して本館を拡張,さらに倉庫や住宅,埠頭などを増築し,石塀をめぐらし大規模なものとなった。この平戸時代に,同じく平戸に設けられたイギリスの商館と貿易競争をし,これを駆逐,また鎖国以後は中国とともに対日貿易を独占した。寛永 17 (1640) 年商館の倉庫の破風に記した西洋紀元が江戸幕府のとがめるところとなり,倉庫の破壊を命じられ,また商館長も1年交代とするように命じられた。寛永 18 (1641) 年7月商館は長崎移転を命じられ,以前にポルトガル人収容のために築かれた,面積1万 3000m2余の扇形の小島である出島に移り,1799年 12月 31日の東インド会社の解散,国営化ののちもその出先機関として存続して開国までそこにあった。出島には住宅,倉庫など多くの建物が設けられ,商館長以下数人から十数人のオランダ人が,許可された日本人の使用人を使って生活したが,出入りの制限をはじめ生活上は多くの拘束を受けていた。商館長は一般にカピタン (甲比丹) と呼ばれ,162代にわたり,年1回 (のち5年に1回) 江戸参府して将軍に謁見した。イサーク・ティチングやヘンドリック・ドゥフらの歴代商館長やフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトに代表される商館付医師は,西洋の医学や学問,文化を伝え,日本の蘭学の形成に多大の影響を与えた。商館は江戸時代を通して,日蘭貿易の場であるとともに西洋文化伝来の窓口でもあった。安政2 (1855) 年の日蘭和親条約以後はオランダ人に対する種々の拘束も解け,同5年日蘭通商条約の成立により商館は廃止,代わりに総領事館が設置された。

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デジタル大辞泉

オランダ‐しょうかん〔‐シヤウクワン〕【オランダ商館】
江戸時代、日本に置かれたオランダ東インド会社支店。慶長14年(1609)平戸に設置されたが、寛永18年(1641)長崎の出島に移転を命じられ、幕末に及んだ。

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世界大百科事典 第2版

オランダしょうかん【オランダ商館】
江戸時代平戸および長崎にあったオランダ東インド会社の日本支店。1600年(慶長5)オランダ船リーフデ号が豊後に漂着したが,09年オランダとの国交が開かれたとき商館が平戸に置かれた。40年(寛永17)幕府は商館の建物の破風に西暦年号が記されていることを口実に,その取壊しを命じ,翌年ポルトガル人の来航禁止で空家となった長崎出島への移転を命じた。以後幕末に至るまで,オランダ船の発着地および商館員の居留地は出島にのみ限定され,許可がないかぎり,他の地域に立ち入ることは許されなかった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

オランダ商館
おらんだしょうかん

江戸初期に平戸(ひらど)、その後長崎の出島(でじま)にあったオランダ東インド会社の日本支店。1609年(慶長14)オランダとの正式国交が開けたとき、平戸に置かれ、スペックスが初代館長となった。現在の長崎県平戸市崎方(さきかた)町、平戸港の東端部に位置し、民家72戸分を立ち退かせて商館を建設したという(商館跡は国史跡に指定)。1640年(寛永17)商館の建物の破風(はふ)に西暦年号が記されているのを口実に、幕府はその取り壊しを命じ、41年には、ポルトガル人の来航禁止以後空き家となっていた長崎出島への移転を命じた。以後幕末に至るまで、オランダ船の発着地、および商館員の居留地は出島にのみ限定され、許可がない限り、他の地域に立ち入ることは許されなかった。出島は面積3969坪(約1万3000平方メートル)、扇形の人工の島で、町との間には橋があった。中央を貫通する道路と、これと交差する道路により4区画に分かれ、ここにオランダ人居宅、日本人諸役人、通詞(つうじ)の家、各種倉庫など65棟が建っていた。

 出島に滞在するオランダ人は、商館長(カピタン)、次席(ヘトル)、荷倉役、筆者、外科医、台所役、大工、鍛冶(かじ)など、9人から12~13人で、彼ら自身「国立の牢獄(ろうごく)」とよぶほど不自由な生活を送っていた。商館長は年1回(のち5年に1回)江戸に参府し、将軍に謁見した。ここに滞在した社員には、日本の医学、蘭学(らんがく)の発展に寄与したドゥーフ(館長)、ツンベルク(船医)、シーボルト(医員)、日本を海外に紹介したケンペル(医員)、ティツィング(館長)らがあった。オランダ商館は長崎奉行(ぶぎょう)の管轄下に置かれ、長崎町年寄の下の出島乙名(おとな)がオランダ人との直接交渉にあたった。出島乙名は、島内に居住し、オランダ人の監視、輸出品の荷揚げ、積出し、代金決済、出島町内の出入り、オランダ人の日用の買い物の監督などを行った。乙名の下には組頭、筆者、小使など約40人の日本人がいた。このほか、幕末には約140人に上る通詞たちも、オランダ人ともっとも密接な関係をもった。出島商館への出入りは一般には禁止されていたが、長崎奉行所役人、長崎町年寄、オランダ通詞、出島乙名、組頭、日行使、五箇所宿老、出島町人は、公用の場合に限り出入りを許された。商人や町人はその居住町の乙名に願い出、この乙名から出島乙名に人数、用件を届け出て、初めて出入りが許可された。幕末に至り、1855年(安政2)オランダ人の長崎市内の散歩が許され、翌年出島開放令が出され、出島乙名、番人などが出島から引き揚げ、出入りはまったく自由となった。58年、日蘭(にちらん)通商条約の成立により商館長は外交代表に任命され、60年(万延1)には、商館はオランダ総領事館を兼ね、商館長は総領事となった。

[永積洋子]

『『長崎市史 地誌編・名勝旧蹟部』(1937・長崎市)』

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精選版 日本国語大辞典

オランダ‐しょうかん ‥シャウクヮン【オランダ商館】
〘名〙 江戸時代、日本に設けられたオランダ東インド会社の支店。慶長一四年(一六〇九)平戸に設置されたが、鎖国に伴い、寛永一八年(一六四一)長崎の出島に移り、西欧文化輸入の唯一の窓口となった。安政五年(一八五八)の開港に伴い領事館となる。

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社日本史事典 三訂版

オランダ商館
オランダしょうかん
江戸時代,オランダ東インド会社が設けた日本支店
1609年平戸に設置。鎖国政策により,'41年長崎出島に移り,以後幕末まで対日貿易の拠点となった。商館長(通称甲比丹 (カピタン) )以下館員数名〜十数名が在住。1858年日蘭修好通商条約締結後,総領事館となった。19世紀初め,ナポレオン戦争本国や植民地がフランスやイギリスに侵犯されたときも出島にのみはオランダ国旗がひるがえった。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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