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オーストリア継承戦争【オーストリアけいしょうせんそう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

オーストリア継承戦争
オーストリアけいしょうせんそう
War of the Austrian Succession
1740~48年オーストリアの支配権継承をめぐって争われた国際戦争。 40年神聖ローマ皇帝カルル6世の没後,ドイツ諸侯やイギリス,オランダなど列国の承認を得た国事詔書に従い,その長女マリア・テレジアが全ハプスブルク領を継承した。しかしザクセンバイエルンなど相続権をもつ諸侯が継承権を要求,同年即位したプロシアフリードリヒ2世 (大王)シュレジエンを要求して戦争となった。フランスはプロシア側につき,イギリスはオーストリアと同盟したので,この戦争は,オーストリア,プロシア間ではシュレジエン戦争,植民地アメリカでのイギリス,フランス間ではジョージ王戦争と呼ばれる。 42年にはバイエルン選帝侯がカルル7世として帝位につくなどのこともあったが,マリアテレジアの奮闘で 45年9月,その夫君フランツが正式に神聖ローマ皇帝に選ばれ,48年 10月のアーヘンの和約で,シュレジエンがプロシアに譲られたほかは,オーストリアの領土は保全された。

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デジタル大辞泉

オーストリア‐けいしょうせんそう〔‐ケイシヨウセンサウ〕【オーストリア継承戦争】
1740~1748年、オーストリアの王位継承をめぐって行われた国際戦争。オーストリア王女マリア=テレジアの即位に反対するバイエルンザクセン諸侯、フランス・スペイン王などと、イギリスを味方にしたオーストリアが対抗アーヘンの和約により、マリア=テレジアの王位継承、プロイセンシュレジエン領有などが認められた。

出典:小学館
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世界大百科事典 第2版

オーストリアけいしょうせんそう【オーストリア継承戦争】
神聖ローマ皇帝カール6世の長女マリア・テレジアのオーストリア継承をめぐって,1740‐48年に行われた戦争。この領土相続は,列国の承認をえた〈国事詔書(プラグマティッシェ・ザンクツィオン)〉にもとづくものであったが,40年10月,マリア・テレジアが父の死とともにオーストリアの君主になると,バイエルン,ザクセンおよびスペインは,領土的野心から約束を破ってこれに異議を唱え,ハプスブルクと長年敵対関係にあるフランスがこれを支持した。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

オーストリアけいしょうせんそう【オーストリア継承戦争】
オーストリアの王位継承をめぐって起きた国際戦争(1740~1748)。マリア=テレジアの即位をめぐりプロイセン・フランス・スペインなどが開戦、オーストリアはイギリスと結び対抗。アーヘンの和約で終結。 → アーヘンの和約

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

オーストリア継承戦争
おーすとりあけいしょうせんそう
1740~48年のオーストリア王位継承をめぐる国際戦争。18世紀以降、イギリスの世界的優位とプロイセン・ドイツの台頭をもたらす契機となった。植民地をめぐる西欧列強、とくに英仏の対立が激化するなかで、神聖ローマ皇帝カール6世は長女マリア・テレジアへの相続のために努力してきた。1740年カールが没すると、バイエルン選帝侯カール・アルバートはその相続権を主張した。プロイセンのフリードリヒ2世(大王)も、マリア・テレジアの継承を認めながら、その条件としてシュレージエン四公領の相続を要求し、和戦両用の戦略により、40年冬シュレージエンを占領した。フランスもバイエルンを支持してプロイセンと結び、41年11月プラハを占領し、選帝侯は皇帝カール7世Karl (1697―1745、在位1742~45)となった。
 イギリスは、世界戦略のなかでオーストリアを支持し、ブルボン連合からプロイセンの脱落をはかり、プロイセン・オーストリア間の密約に成功する。反撃に転じたマリア・テレジアが、イギリス王ジョージ2世の大陸出兵に助けられて優位にたつと、フリードリヒはふたたびベーメンに軍を進めたが、カール7世の死もあって、1745年シュレージエンの確保を条件にドレスデンに和を結び、マリア・テレジアの相続とその夫皇帝フランツ1世の選立を認めた。その後も世界の各地で戦争は続いたが、ネーデルラントの戦場にオーストリアと結んだロシアの出兵が決定的になって、48年アーヘンの和約となり、戦争は終結した。[進藤牧郎]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

オーストリア‐けいしょうせんそう ‥ケイショウセンサウ【オーストリア継承戦争】
一七四〇~四八年、オーストリア王位継承をめぐって起きた戦争。オーストリア王女マリア=テレジアの即位に対し、ドイツ諸侯、フランス、スペイン王らが異議を唱えたもの。オーストリアはイギリスと同盟してこれに対抗。アーヘンの和約で終結し王位はマリア=テレジアに帰属し、プロイセンはシュレジエン(シロンスク)を獲得した。

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社世界史事典 三訂版

オーストリア継承戦争
オーストリアけいしょうせんそう
War of the Austrian Succession
1740年から48年にかけて行われた,ハプスブルク家の家領相続と帝位継承権をめぐる国際戦争
カール6世は,1724年にプラグマティック−ザンクション(国事詔書)を公示し,帝国不分割と継承権を娘マリア=テレジアに認め,列国も承認した。しかし彼の死後,バイエルン選帝侯カール=アルベルトが帝位継承権を主張し,フランス・スペインの支持を得てカール7世と称した。この機をとらえてプロイセンのフリードリヒ2世(大王)が出兵し,シュレジエンを占領。マリア=テレジアはイギリスの援助とハンガリーの支援を得て苦境を脱した。またイギリスも大陸と海外植民地でフランス・スペイン連合軍を破った(ジョージ王戦争)。のちロシアがオーストリアに救援軍を送るに及び,戦争は終結。1748年のアーヘン和約により,マリア=テレジアの王位継承権(帝位は夫フランツが継承)とプロイセンのシュレジエン領有が承認された。

出典:旺文社世界史事典 三訂版
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