●カイロ
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
カイロ
Cairo
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デジタル大辞泉
カイロ(Cairo)
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世界大百科事典 第2版
カイロ【Cairo】
[位置と景観]
細長いナイル川の谷がデルタへ扇形にひろがろうとするかなめの位置にあり,近代以前はナイル川の水運により,19世紀中葉以降になるとここを中心として国内各地とつながる鉄道網や道路網をも加えて,つねにエジプト全土の政治・経済・文化の中心であった。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
カイロ
かいろ
Cairo
エジプトの首都。ナイル川デルタの南端から25キロメートル南の、西アジアとアフリカ、ヨーロッパを結ぶ要地に位置し、エジプトの政治、経済、文化の中心地であると同時に、アラブ世界、アフリカ大陸で最大の国際都市である。1979年に「カイロ歴史地区」として世界遺産の文化遺産に登録されている(世界文化遺産)。アラビア語ではアル・カーヒラAl-Qāhirahという。人口710万9000(1999推計)。ギゼーなど郊外を含めた大カイロ市は約800万人に達する。気候は年降水量26.7ミリメートルという砂漠気候であり、大人口が生活できるのはナイル川の恵みによる。夏は8月の平均気温が27.9℃と暑いが、湿度が低いためしのぎやすい。冬は1月の平均気温が14.0℃で、雨や曇りの日はやや寒いが、晴天のときは暖かく快適で、ヨーロッパからの観光客があふれる。4月から初夏にかけ、カムシンとよばれる砂まじりの熱風が南の砂漠から吹く。年間を通じて地中海からの北風が卓越するので、重工業地帯は南郊につくられている。
カイロはエジプト最大の工業都市であり、第一次世界大戦後に発達した紡績、食品加工などの軽工業のほか、鉄鋼、造船、鉄道車両、化学肥料などの重工業、さらには石油精製・石油化学工業などがあり、スエズの精油工場とはパイプラインで結ばれている。19世紀末57万人であった人口は、1922年のエジプト独立後急速に増加し、今日では年4%以上の人口増加率を示している。中東戦争中の不整備もあり、住宅不足、交通渋滞、電話回線不足、学校の不足など、都市生活基盤の悪化がみられる。食料品、日用品の不足もしばしばおこっている。
市域はナイル川デルタの二大支流分岐点のすぐ上流に位置し、主としてナイル川右岸一帯と、中の島であるゲジラ島、ローダ島および左岸沿いに広がっているが、近年人口増加により、北郊、南郊へと拡大しつつある。市内は伝統的な旧市街とヨーロッパ風の新市街に分かれている。旧市街は南のオールド・カイロから、東のモカッタムの丘の麓(ふもと)に広がるイスラム地区までの区域で、低いれんが造りの住居、バザール、手工業工房が混在している。コプト教会やアル・アズハル・モスク、スルタン・ハッサン・モスク、ムハンマド・アリー・モスクなどの各時代のモスク、旧宮殿のシタデルがあり、歴史の重みを感じさせる。新市街は運河を埋め立てたポート・サイド通りから、西のナイル川沿いに広がっている。タハリール通りとラムセス通りに挟まれた区域は市の中心地で、付近には、各省庁、市役所、中央郵便局、航空会社、ホテル、中央市場、バスターミナル(タハリール広場)などがあり、ビジネスセンターとなっている。学術文化施設として、ツタンカーメンの黄金の棺(ひつぎ)で知られるエジプト博物館、カイロ大学、アメリカ大学などがある。右岸沿いのガーデン・シティ、ゲジラ島のザマレク、南のマアディ、左岸のドッキー、空港道路沿いのヘリオポリスは中・高級住宅地となっている。ラムセス中央駅北部のシュブラは工場が混在する労働者住宅地である。旧港町のブラクは旧市街のオールド・カイロ、イスラム地区とともにスラム化が進んでいる。北部のラムセス中央駅は国内鉄道のターミナルである。カイロ国際空港は北東約30キロメートルの砂漠の中にある。また、南西5キロメートルには三大ピラミッドやスフィンクスで有名なギゼーがある。
[藤井宏志]
歴史
642年、アラブ軍を率いたアムル・ブン・アルアースは、ナイル東岸に軍営都市(ミスル)フスタートを建設し、エジプト統治の拠点とした。ついで870年、半独立王朝を樹立したアフマド・ブン・トゥルーンは、フスタートの北東約2.5キロメートルの地点に、彼の名を冠したモスクを中心とする新都カターイを建設した。さらに、969年エジプトを攻略したファーティマ朝第4代カリフ、ムイッズは、カターイのさらに北東約2.5キロメートルの地点に、東西約0.9キロメートル、南北約1.2キロメートルの城壁に囲まれた新都を建設し、カーヒラ(勝利者)と命名した。現在のカイロは、このカーヒラを旧市街とする都会である。城壁に囲まれた市街は多くの地区(ハーラ)によってくぎられていたが、このハーラは、モスク、市場(スーク)、公衆浴場(ハンマーム)などを備えた、都市民の最小生活空間を構成していた。さらに、サラーフ・アッディーン(サラディン)は、防衛上の目的から、カーヒラの南方約1.5キロメートル、カターイの東方約1キロメートルの丘の上に城塞(じょうさい)を築き、以後アイユーブ朝(1169~1250)、マムルーク朝(1250~1517)時代において、市街区は南西のカターイ方面に向けて拡張した。こうして、この時代のカイロは、当時すでに衰退しつつあったバグダードにかわって、イスラム世界第一の都会として繁栄した。『千夜一夜物語』に反映しているのは、繁栄時のバグダードとマムルーク朝の前半期であるバフリー・マムルーク朝(1250~1390)時代のカイロの生活であるといわれている。1517年のセリム1世による征服以後、エジプトはオスマン帝国の一属州となったため、カイロはそれまでの繁栄を失ったが、その間にあっても、市街区は徐々に西方に拡張していった。ナポレオンの遠征(1798~1801)以後、ムハンマド・アリー朝(1805~1953)下において、近代国家建設の一環として、カイロの都市計画が練られ、市街区の大幅な拡張がみられた。とりわけイスマーイール(在位1863~79)時代以降の発展は目覚ましく、旧市街から西方ナイル川に至る地域、さらにはナイル西岸にまで、ビルディングの建ち並ぶ近代都市カイロが出現した。こうしたカイロの拡張は、エジプト人口の増大、都市化現象のために、1952年の革命以後の共和国時代においても続いた。ここに、カイロは、旧カイロ(フスタート)のみならず、ナイル西岸の新住宅区ギゼー、ドッキー、アグーザ、副都心ヘリオポリス、などを含む一大メガロポリスとなった。現在のカイロ(大カイロ)は、アラブ世界第一の活気に満ちた政治、経済、文化の中心地であるとともに、過密とスラム化に悩む、典型的な開発途上国の都会でもある。
[加藤 博]
『J. L. Abu-LughodCairo. 1001 Years of the City Victorious(1971, Princeton Univ. Press)』
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精選版 日本国語大辞典
カイロ
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旺文社世界史事典 三訂版
カイロ
Cairo
ファーティマ朝のとき建設。カーヒラ(勝利者)と呼ばれ,973年首都になる。13世紀にアッバース朝が滅亡したのちは,イスラーム世界の中心地となり,東西貿易の集散地として繁栄。アイユーブ朝・マムルーク朝をへて発展したが,14世紀の黒死病流行や,オスマン帝国の支配によって徐々に衰退した。1798年,ナポレオン1世の占領後に面目を一新して近代都市化し,ムハンマド=アリーがこの近代化を結実させた。19世紀にはフランス・イギリスの共同管理となり,ついでイギリスの保護進駐を受けた。
出典:旺文社世界史事典 三訂版
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