●キプチャク・ハン国【キプチャク・ハンこく】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
キプチャク・ハン国
キプチャク・ハンこく
Kipchak Khanate
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日本大百科全書(ニッポニカ)
キプチャク・ハン国
きぷちゃくはんこく
Kipchak khante
チンギス・ハンの長子ジュチの一門が南ロシア・キプチャク草原を中心に形成した遊牧国家。ジュチ・ウルスJöchi ulusともいう。また宗家のバトゥ家の帳幕の色にちなんで、金帳ハン国ともよばれる。チンギス・ハンは諸子弟分封のおり、ジュチには右翼(西方)にあたるアルタイ北西部、イルティシ川流域を与え、それ以西の地の征服を命じた。その次子バトゥは太宗オゴタイの命で西征軍の主将となり、父の遺志を継いでロシアを征服、東ヨーロッパを席巻(せっけん)した。帰途ジュチの諸子は新領土にとどまり、その結果、ボルガ川河口あたりのサライを中心に西方領に拠(よ)るバトゥ系、イルティシ川、カザフスタンの東方領を抑える長兄オルダの系統(白帳ハン国)、およびウラル川東方の中央部に散居するシェイバンら諸子の系統(青帳ハン国)の3集団に分かれ、巨大な半独立の所領を形成した。支配者のモンゴル人は初封時の四つの千人隊だけであり、被支配民の大半はキプチャク、ブルガルなどのトルコ系であったため、急速にトルコ化した。反面、モンゴル固有の制度、習慣を捨てることなく遊牧生活を堅持して、属領ルス(ロシア)に対しては租税を徴収するのみで満足した。バトゥはオゴタイ系と対立し、トゥルイ家の憲宗モンケを擁立して事実上の独立を得た。バトゥの弟ベルケ以降、イランのフラグ家との確執が続き、エジプトのマムルーク朝と結んだ。のちティームールとも争い、しだいに弱体化して1502年に滅んだ。
[杉山正明]
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