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ケルト人【ケルトじん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

ケルト人
ケルトじん
Celtae; Keltoi; Celts
古代ヨーロッパの中部と西部に住み,ローマ人がガリア人と呼んだ人種であるが,不明な点が多い。その言語はインド=ヨーロッパ語族に属する。先史鉄器時代の遺跡出土品から,南ドイツのバイエルンおよびボヘミアあたりが原住地と推定される。前7世紀頃からフランス,スペイン,ブリテン島,イタリア,バルカン半島,小アジアなどに移動。前4世紀にイタリアに侵入してエトルリア人居住地域に定住し,前 390年頃にはローマを略奪した。アルプス以南のケルト人居住地域はガリア・キサルピナと呼ばれ,ローマにとっては不断の脅威であったが,前 192年までにはローマの支配権が確立し,西部アルプス以北もローマの属州となった。戦士は長身筋骨たくましかったが,各部族が統一行動をとらず,やがてローマとゲルマン人に征服された。その社会構成は王,戦士貴族,自由農耕民の3部から成り,呪術的祭祀を担当したドルイド僧は特に高い身分を保持した。家族は一夫多妻,男系で,土地所有権は血族単位で考えられ,経済の基礎は混合農耕であった。概して活発,好戦的で興奮しやすく,音楽,美術の才能にも恵まれていた。

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世界大百科事典 第2版

ケルトじん【ケルト人 Celts】
西ヨーロッパの歴史世界を構成する民族の一つ。ギリシア語でケルトイKeltoi,ラテン語ではケルタエCeltaeまたはガリGalliとよばれた。広域にわたる分布のため,人種的特性は一定しない。史上重要な地位を占めながら,その評価は長い間なおざりにされてきたきらいがある。その事情は以下にみるとおりであるが,近年,再評価の気運が高まり,西欧文明一翼を担ったありさまが,考察の対象となってきている。 ケルト人は,インド・ヨーロッパ語系諸族の一支族として,前1500年ころまでには,ドナウ,ライン川沿岸の森林地帯に移動し,定着したとみられる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

ケルト人
けるとじん
Celts
インド・ヨーロッパ諸族の一派。紀元前5世紀から前1世紀にヨーロッパ中部および西部で活躍した民族。ギリシア語でケルトイ、ガラトイ、ラテン語でケルタエ、ガリイ(ガリア人)とよばれた。[長谷川博隆]

初期

原住地、起源については議論があるが、南西ドイツ、スイス、東フランスの青銅器文化の担い手であり、初期鉄器時代のハルシュタット後期、後期鉄器時代のラ・テーヌ最初期に、シャンパーニュ、ザール、モーゼル、中部ライン地方において、民族としてのケルト人が形成されたと思われる。なお、ギリシア、エトルリア文化との交流も明らかな北西アルプス地方のハルシュタット文化は、彼らが担ったと推定される。ついで、前5世紀の、初期ラ・テーヌ時代のシャンパーニュ、中部ライン地方の貴族の墳墓および出土品は、初期ケルト美術の精華を示してくれる。[長谷川博隆]

移動期

(1)「西方のケルト人」 イタリアに侵入したケルト人は、前387年(または390年)のアッリアの勝利後、ローマを荒らし(ケルト人の侵寇(しんこう))、その後、北イタリアのアドリア海岸に定着した。一派のインスブレス人はメディオラヌム(ミラノ)を首邑(しゅゆう)とし、ボイ人はエトルスキの町フェルシナをボノニアとした。またアドリア海岸にはセノネス人が定住する。前293年にローマ軍に敗れたのちは、北イタリアのケルト勢力も衰えたが、ローマも各地に植民市を設けてこれに相対した。ケルト人のスペインおよびブリテン島侵入の時期については諸説あるが、ラ・テーヌ期にさかのぼると推定される。ガリアの地の大部分のケルト化も進み、イベリア半島では、先住のイベロ人と混血してケルト・イベロ人が形成され、一方、大陸からのたび重なるケルト人の渡来によりブリテン島のケルト化も進み、現在でも、アイルランド語、スコットランド・ゲール語、ウェールズ語として、ケルト語は生き続ける。(2)「東方のケルト人」 前4世紀ごろ、一派はボヘミア(ボイ人からきた名称)、モラビア、ハンガリーを経てルーマニア北部に入り、他の一派はノリクムを経てダルマチアに移動した。前279年ごろにはデルフォイを侵寇している。北に転じた一派はシンギドゥヌム(ベルグラード)を建て、別の一派はトラキアに入って王国を建設し、その影響力は南ロシア平原まで及び、ケルト、スキタイ混交文化も生まれた。さらに、小アジアのビテュニアの王位継承に干渉した一派は、その後、前3世紀初めフリギア高原に定着し、ガラティアとよばれる地域をペルガモン王から与えられ、小アジアの地にケルト人社会の伝統を保持し続けた。[長谷川博隆]

後期

前1世紀には、いわゆるオッピドゥム(城市)文化が中部ヨーロッパの戦士、農耕民のケルト人の世界に確立した。しかし、カエサルのガリア戦争に対して続けられた自由を求める闘争も、前52年に終止符を打ち(ウェルキンゲトリクスの率いる大蜂起(ほうき))、前16~前10年には、大陸の最後のケルト人の拠点もローマの支配下に入り、ケルト人の地、ガリアは完全にローマ化する。[長谷川博隆]

政治・社会・文化

ガリアやブリテン島では、政治的には、段階的なクリエンテス制(上下の保護隷属関係)に基づく一種の貴族制的体制が保たれたが、ついに統一国家を形成することはなかった。経済的基盤は、古くは血縁的な共同体に属する土地にあり、貨幣の鋳造も行われた。一般に、ケルト人の世界は、王、神官、戦士貴族および自由農民からなったが、城市や貴族の墳墓の発掘によって、その社会構成も明らかにされつつある。城市の建設、商・工業の発展によって貴族の権力が確立、伸長してゆくが、それとともに神官(ドルイド僧)層の力も、宗教、文化、政治に及んでゆく。ドルイド教の教義、儀式は、文字化されず口伝によるため、ギリシア・ローマ人の叙述、遺物、伝承によって再構成せざるをえない。彼らは、インド・ゲルマン人的な宇宙神を中心とする独特の神の体系をもっていたと推定されるが、霊魂不滅を信じ、自然崇拝が盛んで、聖樹、聖獣、聖泉、聖山信仰などもみられた。抽象的、記号的性格の造形感覚をもち、その美術は、抽象文様、形態のリズム化を特徴とし、木偶(もくぐう)などの木彫、装身具・武具としての金工細工などに卓越した才幹を示した。[長谷川博隆]
『ゲルハルト・ヘルム著、関楠生訳『ケルト人』(1979・河出書房新社)』

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旺文社世界史事典 三訂版

ケルト人
ケルトじん
Celts
インド−ヨーロッパ系のヨーロッパ先住民族
ゲルマン人が侵入する以前の西ヨーロッパを支配した。原住地は南ドイツと考えられるが,前7世紀までに現在のフランス・イタリア・スペイン・アイルランドなどに広がり,前4世紀にはバルカンにも達した。ローマ人がガリアと呼ぶのがこれである。最盛期はラ−テーヌ文明時代で特異な鉄器文化をもち,馬具や戦車の車などが出土している。カエサル侵攻に始まるローマの圧迫に対して抵抗したウェルキンゲトリクスは,民族的英雄とされるが,前1世紀にはローマの支配下に置かれ,同化されていった。現在ゲーリック語などのケルト語派は,使用地域・人口とも非常に限られている。ケルト社会は,ドルイドと呼ばれる神官が社会の指導者であったとされており,また彼らの伝説的英雄を題材とした『アーサー王物語』は騎士道物語の名作として名高い。

出典:旺文社世界史事典 三訂版
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デジタル大辞泉

ケルト‐じん【ケルト人】

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