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ジャクリーの乱【じゃくりーのらん】

日本大百科全書(ニッポニカ)

ジャクリーの乱
じゃくりーのらん
1358年、北フランスに発生した農民反乱。ジャクリーJacquerieということばはジャックJacques(農民をさす)の集団という意味で使われたが、この反乱それ自体をさすことばでもある。同年3月以降、摂政シャルルはコンピエーニュにあり、パリはエチエンヌ・マルセル一党の統制下にあった。カペー王家の血筋を引くナバル王シャルル(「悪人」)が両者間にあって策動していた。この情勢下に、5月18日、サンリス北西のオアーズ川沿いのサン・ルー・デスランの農民が、パリに食糧を護送中の騎士の一行を襲った。これがきっかけであったとみられるが、その点諸説一致しない。摂政シャルルが、エチエンヌ・マルセルの乱に対処すべく、パリ周辺の城砦(じょうさい)の補強を命じたことが領民を刺激したとする説もある。
 領主側の防衛本能と領民側の動揺が相互に刺激しあって、反乱は、ピカルディー、イル・ド・フランス、シャンパーニュ、さらに北のアルトア、西の下ノルマンディー、東のマルヌ渓谷、南のオーセル地方にまで広がった。散発的な一揆(いっき)にとどまらず、ギヨーム・カールGuillaume Cale(?―1358)という指導者の下に結集した約6000と伝えられる農民軍団が動いた。コンピエーニュ、サンリス、エルムノンビル、モーと軍団は転戦し、6月10日前後、ボーベ地方のクレルモン近郊で、ナバル王シャルルの軍勢と対決した。シャルルの槍(そう)騎兵約400が農民軍に突入するとき、戦場はと畜場であった。カールはその場で処刑されたと伝えられ、農民軍団は解体した。各地の騒乱は、摂政シャルルの政権が確立されるにつれて鎮圧された。北フランス諸都市は、ジャクリーに対して態度を決しかね、王政府の術策の前に屈した。摂政シャルル、後のシャルル5世(「賢王」)は危機を乗り越えた。[堀越孝一]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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