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ジュンガル

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

ジュンガル
ǰünghar
モンゴル系オイラート人の一部族名。ドルベット人とともにチョロスとも総称される。おそらくもとはトルコ系で,12世紀にアルタイ山脈方面に拠ったナイマン人の後裔と思われる。チョロスが史上に活躍するのは 15世紀の初めからで,マハムード (馬哈木) ,トゴン (脱歓)エセン (也先)らの有名な指導者を出した。その子孫が 17世紀のジュンガル部長バートゥル・ホンタイジ (在位 1634~53) で,ホシュート部族の外戚として勢力を築き,その子センゲ (在位 1653~71) ,ガルダン (噶爾丹)にいたって全オイラートに号令,1675年ガルダンはハンと称した。ガルダンは康煕帝と衝突して,96年ジョーン・モドの戦いで敗れ,まもなく病死した (97) が,王位はセンゲの子ツェワン・アラプタン (策妄阿拉布坦)が継いだ。これからジュンガルは中央アジアで清とロシアの間に介在して,東西トルキスタンの諸国から貢税を取ったが,ラマ・ダルジャ・ハンのとき,清の乾隆帝内紛に乗じられ,1755年に滅ぼされた。しかしアムルサナーの抵抗で,平定は 57年に持越された。

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世界大百科事典 第2版

ジュンガル【Jungar】
17世紀初から18世紀中葉の間,天山・アルタイ両山脈間のジュンガル盆地に分布したオイラート系の遊牧部族とその国家。この国家を清朝では準噶爾部あるいは略して準部と称した。17世紀初にオイラート族は少なくとも五つの部族から成る連合体で,ホシュート部族長が盟主の地位にあった。この世紀20年代からチョロス部族長のハラフラ(1634没)が台頭してホシュート部族長の地位を脅かすにいたった。チョロス部族の遊牧区がオイラートの左翼(モンゴル語でジュンガル)にあたっていたことから,この部族集団はジュンガルとも呼ばれるようになった。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

ジュンガル
じゅんがる
Jungar

17世紀の初め、西北モンゴル高原で勃興(ぼっこう)し、18世紀中期まで続いたモンゴル系の民族オイラートの部族集団とその国家。清(しん)朝の史書では準噶爾と表記され、回部(かいぶ)と対比して準部(じゅんぶ)ともよばれた。15世紀に活躍した瓦剌(ワラ)(オイラート)のエセン・ハンの後裔(こうえい)で、チョロス部長のカラクラがオイラートのチョロス、バガトゥト、ホイト、トルグートの4集団を統一して君主となったのが起源である。これらの集団が全オイラートの左翼(ジューン・ガル)をなしていたから、彼らはジュンガルとよばれたというのが通説である。チョロス王家は第2代のバートル・ホンタイジを経て第3代のガルダン(噶爾丹)の時代に強力な遊牧騎馬民族国家を建てた。東方のハルハ・モンゴルを圧迫し、清朝と戦い、東トルキスタンを属領として、当時の内陸アジアに勢威を振るったが、1755年、清朝の攻撃によって本拠のイリを失い、内紛とともに58年に再攻撃を受けて、まったく滅んだ。

[佐口 透]

『佐口透著『ロシアとアジア草原』(1966・吉川弘文館)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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