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スターリン批判【スターリンひはん】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

スターリン批判
スターリンひはん
Criticism on Stalin
1956年2月のソ連共産党第 20回大会で行われた前指導者 I.V.スターリンに対する批判。中央委員会報告において N.フルシチョフ第一書記が,「個人崇拝」のため市民の権利が侵された点を指摘,A.ミコヤンも 20年間集団指導がなかった点を批判した。最終日にフルシチョフは秘密報告を行い,スターリンの病的猜疑心のため残忍な大量弾圧とテロが横行し,きわめて多数の無実の者が処刑されたこと,41年の独ソ戦においても警告無視,作戦指導上の誤りなどのため重大な損害を受けたことなどを暴露した。この報告は公表されなかったが,主要共産党指導部に送られたものがアメリカ国務省により発表され,世界に衝撃を与えた。イタリア,ポーランドなどの党指導部は,「個人崇拝」という形での問題のとらえ方は不十分であるとの態度をとった。中国はスターリン批判のやり方を非難し,中ソ論争 (→中ソ対立 ) へと進み,東欧諸国でもポズナン暴動ハンガリー動乱などが発生し,西側の共産党内部にも分裂が拡大した。 61年 10月のソ連の第 22回党大会では第2次スターリン批判が行われ,スターリンの遺棺がレーニン廟から撤去され,東欧諸国でも,工場や街の名称変更,スターリン像の撤去などが進んだ。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉

スターリン‐ひはん【スターリン批判】
1956年のソ連共産党第20回大会におけるフルシチョフの秘密報告を契機として行われた、スターリンとその時代の思想・政策全般に対する批判。各国の共産主義運動に大きな影響を与えた。→ハンガリー事件中ソ論争

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
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世界大百科事典 第2版

スターリンひはん【スターリン批判】
スターリンの名と結びついたソ連邦における共産主義の運動,政策および体制に対する党内外からの批判を指す。1930年代には亡命中のトロツキーが《裏切られた革命》(1937)などによってスターリンの指導とその政策を批判した。ソ連邦においてはスターリンの死後,ベリヤが追放されてのち,党内でスターリンの個人崇拝に関する調査が始まった。56年2月の第20回共産党大会においてはミコヤンがスターリンに対する個人崇拝を批判した。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

スターリンひはん【スターリン批判】
1956年のソ連共産党大会におけるフルシチョフ秘密報告を契機に起こった、スターリンとその理論・政策に対する批判。個人崇拝・大粛清・官僚主義・ソ連中心主義などが批判され、国際共産主義運動の一大転機となったが、同時にハンガリー暴動や中ソ論争を誘発した。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

スターリン批判
すたーりんひはん
ソ連の政治家スターリンに対する批判。1953年3月のスターリンの死後、ソ連で彼に対する批判が始まった。1956年2月のソ連共産党第20回大会で、フルシチョフ第一書記は秘密会議における特別報告(2月25日)のなかで、1930年代の大粛清によって多くの無実の人々が犠牲となったこと、自己に対する個人崇拝を助長したこと、対ドイツ戦への備えが十分でなく緒戦においてソ連に大損害をもたらしたことなどで、スターリンを激しく非難した。この秘密報告は数か月後アメリカ国務省によって公表され、大きな波紋をよんだ。ポーランド、ハンガリーなどの東欧諸国では反ソ暴動のきっかけとなり、中国ではスターリン擁護の声があがり、中ソ大論争へと発展した。ソ連でもモロトフ、マレンコフなどが1957年6月にスターリン批判を推進するフルシチョフを追放しようとして失敗、逆に反党グループとして追放された。1961年10月の第22回党大会ではスターリンの遺体をレーニン廟(びょう)から除く決定が採択された。ところが、1964年10月のフルシチョフ失脚後、スターリン批判の動きは弱まり、86年2~3月の第27回党大会でも個人崇拝の弊害と党・国家指導のレーニン的規準からの逸脱についてのスターリンへの批判は、主観主義的・主意的誤りについてのフルシチョフへの批判と並んで、しかも両者とも名前をあげずに批判する程度にとどまった。スターリンへの批判は、共産主義の問題点について考える機会を与え、国際共産主義運動の多様化をもたらし、各国共産主義者の自主的な思考と行動を促進した。[中西 治]
『菊池昌典著『増補 歴史としてのスターリン時代』(1973・筑摩書房) ▽フルシチョフ著、志水速雄訳『フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」全訳解説』(講談社学術文庫)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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旺文社世界史事典 三訂版

スターリン批判
スターリンひはん
1956年2月のソ連共産党第20回大会でフルシチョフが行った,スターリン主義批判
スターリンが第二次世界大戦前後にとった内外政策,特に過度の個人崇拝,大量粛清,農業の軽視,独ソ戦争直前の情勢判断の誤り,民族政策の失敗などが批判された。東欧諸国に大きな衝撃を与え,非スターリン化の動きを起こし,また中ソ間の対立を誘起した。

出典:旺文社世界史事典 三訂版
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