●ダダ
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
ダダ
Dada
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知恵蔵
ダダ
(山盛英司 朝日新聞記者 / 2007年)
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デジタル大辞泉
ダダ(〈フランス〉dada)
出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
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ダダ[書名]
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デジタル大辞泉プラス
ダダ
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世界大百科事典 第2版
ダダ【Dada】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
ダダ
だだ
Dada
第一次世界大戦(1914~1918)中から戦後にかけて、ヨーロッパとアメリカに展開された美術および文学上の運動。反美学的、反道徳的な態度を特色とするが、運動が行われた時と場所に応じてその性格はかならずしも一様でない。
[野村太郎]
チューリヒ
大戦中の中心地はスイスのチューリヒで、この地に戦争を嫌って集まった若い芸術家たちは、現実への怒りを込めて否定と破壊の精神をアピールした。ルーマニア出身の詩人トリスタン・ツァラ、ドイツの作家兼演出家フーゴー・バル、同じく作家リヒャルト・ヒュルゼンベックRichard Huelsenbeck(1892―1974)、美術家アルプ、ハンス・リヒターらがそれで、彼らは1916年2月、展示場と小舞台をもつ芸術家クラブ「キャバレー・ボルテール」を開店し、ここを根城としていっさいの伝統的価値や因襲的形式や理性の優位に挑戦し、これらを愚弄(ぐろう)し否定するデモやスキャンダルを巻き起こした。その際、彼らはラルース辞典を気まぐれに開いてそこで偶然目についた単語「ダダ」を運動の名称とした。このチューリヒ・ダダは、前衛美術展を開催したり、ツァラ編集の雑誌『ダダ』を発行して、そのなかで偶然のモチーフを利用した詩の新形式を開拓したりしているが、彼らの主目的は「なにものも意味しない」ダダの否定精神をつきつめ、芸術を白紙に還元することにあったと考えられる。そのアナーキー的な身ぶりの底に、彼らは芸術を実人生と同じ地平に置こうとする欲求を秘めていたのである。
[野村太郎]
ニューヨーク
この欲求を先取りし、伝統美の急進的な否定を具体化した美術家はマルセル・デュシャンである。1913年、ニューヨークで催されたヨーロッパ現代美術展「アーモリー・ショー」で、絵画作品『階段を降りる裸体No.2』でスキャンダルをよんだ彼は、1915年ニューヨークに移住し、レディーメイド(既製品)をそのまま造形的オブジェとして展示することでセンセーションを巻き起こした。彼はダダの名称を用いなかったが、画廊「291」の中心的存在としてチューリヒとほぼ同時期にダダ的な運動を推進した。このサークルにはピカビア、マン・レイらがいる。身近な現実への関心や新しい表現方法と素材の開発は、このサークルがチューリヒの破壊のダダとはややニュアンスを異にする点である。ピカビアは1917年バルセロナで雑誌『391』を創刊したのち、チューリヒ・ダダと合流した。彼がツァラを助けて編集した『ダダⅢ』には、ダダの宣言文が掲載された。
[野村太郎]
ベルリン
ドイツのダダは、ヒュルゼンベックの刺激によって始められ、ベルリンのサークルにおいては、第一次世界大戦後の社会状況を反映して強い政治色に彩られている。ここでは写真モンタージュ(フォトモンタージュ)の技法が社会参与の表現として開拓されたことが特筆される。とくにドイツ軍国主義と反動的資本家層を痛烈に批判した画家グロッスの活躍は目覚ましい。彼は思想的にマルキシズムに傾き、社会変革を鼓舞する制作活動を精力的に推進した。
[野村太郎]
ハノーバー
ハノーバーでは、詩人でもある美術家シュビッタースがただ一人で雑誌『メルツ』を発行し、ダダの気を吐いた。彼はキュビスムのパピエ・コレにヒントを得て、日常生活の廃棄物を素材にした反芸術的な作画を行ったが、たまたま平面に貼(は)った印刷物の断片にmerzの文字があるのをみつけ、それを制作の呼び名とした(メルツ絵画merz-Bild)。偶然の拾得物の寄せ集めと、それらの意外な出会いによって想像力を解放しようとするものであるが、それらの素材はやがて平面をはみ出して堆積(たいせき)されていった(メルツ構築物merz-Bau)。
[野村太郎]
ケルン
ケルンでは、1919年アルプ、エルンスト、バールゲルトJohannes Baargeld(1891―1927)らが、雑誌『通風機』によってダダの運動をおこした。エルンストは、機械の図版を組み合わせたコラージュ作品で幻覚や無意識の世界をあばく糸口をみつけ、アルプは、絵画と彫刻との接点をさぐるレリーフや、無意味の意味をさぐる有機的で「匿名の」オブジェ作品を制作して将来への展望を開いた。
[野村太郎]
パリ
アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、フィリップ・スーポーら、雑誌『文学』(1919創刊)による詩人たちを中心とするパリのダダは、ツァラ、エルンスト、ピカビアらを迎えて強力な運動体となった。ブルトンとスーポーは、半月間自らを一種の白紙の状態(いっさいの先入観をもたない)においてオートマチックにことばを記述(自動記述)した詩集『磁場』(1920)をつくったが、この試みはすでに破壊と否定のダダを乗り越えて無意識の領域に未知の現実を探ろうとする創造的な実験であった。パリ・ダダは、フロイトに共鳴して内的世界へ目を向けたブルトンが、政治変革を志向するアラゴン、エリュアールと決別したときに終わり、やがてシュルレアリスムの運動に発展していく。
[野村太郎]
継承と展開
第二次世界大戦後、抽象表現主義に対抗して1960年前後におこったアメリカおよびヨーロッパの美術の動向には、ダダを回想させるものが多い。アメリカにおけるネオ・ダダ、ジャンク・アートJunk Art(廃物芸術)、ポップ・アート、ヨーロッパにおけるヌーボー・レアリスムがそれである。これらの諸傾向は、ダダが着目した素材(反芸術的な日用品、工業製品とその廃棄物、写真およびマス・メディアが提供するイメージ)や技法(コラージュ、アッサンブラージュ、写真モンタージュ)を継承し発展させた表現も少なくない。新しい技術時代と大衆社会の現実に即応したこれら1960年代の諸傾向は、ダダが口火を切った「反芸術」を、「表現」「抽象」「幻想」と並ぶ20世紀美術の基礎概念の一つとして定着させた。なお、日本でも1960年4月、荒川修作、篠原有司男(しのはらうしお)(1932― )、吉村益信(ますのぶ)(1932―2011)らによってネオ・ダダ・オルガナイザーズが結成された。
[野村太郎]
『M・サヌイエ解説、瀧口修造訳『現代の絵画16 ダダ運動と画家たち』(1973・平凡社)』▽『K・タウツ・スミス著、柳生不二雄訳『ダダ』(1976・パルコ出版)』▽『H・リヒター著、針生一郎訳『ダダ――芸術と反芸術』(1987・美術出版社)』▽『白川昌生編『日本のダダ』(1988・書肆風の薔薇)』▽『平井正雄著『表現主義・ダダを読む』(1996・白水社)』▽『浜田明・田淵晋也・川上勉著『ダダ・シュルレアリスムを学ぶ人のために』(1998・世界思想社)』▽『M・ゲール著、巌谷国士・塚原史訳『ダダとシュルレアリスム』(2000・岩波書店)』▽『D・エイズ著、岩本憲児訳『フォトモンタージュ 操作と創造――ダダ、構成主義、シュルレアリスムの図像』(2000・フィルムアート社)』▽『塚原史著『言葉のアヴァンギャルド――ダダと未来派の20世紀』(講談社現代新書)』
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精選版 日本国語大辞典
ダダ
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