●テノチティトラン
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
テノチティトラン
Tenochtitlán
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デジタル大辞泉
テノチティトラン(Tenochtitlan)
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世界大百科事典 第2版
てのちてぃとらん【テノチティトラン】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
テノチティトラン
てのちてぃとらん
Tenochititlán
現メキシコ市の位置にあったアステカ王国の首都。1345年ごろ建設されたといわれ、テスココ湖上の島の上に位置していた。初めアステカ人の二つの集団が、島の北と南に町をつくり、それぞれテノチュ(首長)をいただいていたが、15世紀末に、南のテノチティトランが、北のトラテロルコのトラトアニ(古代メキシコ語で王の意)を廃して行政官を送り、事実上北の地区を併合した。15世紀初めからのアステカの勢力拡大に伴って、町の規模は大きくなっていったが、最終的には、12ないし15平方キロメートルの地域に、15万ないし20万の人口が密集して住む大都会になった。町全体は、トラテロルコを含めて五つの地区に分けられ、さらにそれが80のトラシラカリとよばれる小区域に細分されていた。それぞれのトラシラカリには小さな行政、祭祀(さいし)センターが設けられて、道路は碁盤の目状につくられ、それと並行して運河が通っていた。居住者はすべて非農耕民で、食糧は本土から舟で補給され、飲料水は西の対岸にあるチャプルテペックから水道で引かれていた。町の中央部には一辺500メートル四方の大神域があり、アステカの主神ウィツィロポチトリや、軍神テスカトリポカ、水神トラロックはじめ多くの神々に捧(ささ)げられた神殿、球戯場などが建っていた。神域の外部には、アステカの王たちの宮殿が建っていた。
テノチティトランは、1521年にこれを占領したスペイン人の手で徹底的に破壊されたため、主要な建造物はすべて姿を消した。1936年にマヌエル・ガミオが大神殿の基底部を一部発掘したが、1978年2月になって、その付近で道路工事が行われた際、月の女神コヨルシャウキを彫刻した直径3.26メートルの石板が発見された。それを契機に大神殿の基礎を全面的に発掘することが大統領の指示により決定されて、メキシコの考古学者のグループが調査を行った。
[増田義郎]
『コルテス『報告書簡』(『大航海時代叢書 第Ⅱ期 第12巻』所収・1980・岩波書店)』▽『ベルナール・ディーアス著、小林一宏訳『メキシコ征服記』(『大航海時代叢書 エクストラシリーズ 第3~5巻』所収・1986・岩波書店)』
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旺文社世界史事典 三訂版
テノチティトラン
Tenochtitlan
14世紀の前半,テスココ湖上の島にアステカ族が建設した壮麗な石造の都市。1521年,スペイン人の“征服者”コルテスに占領された。現在は,メキシコシティーのソカロ広場になっている。
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