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ビットリオ・エマヌエレ2世【ビットリオ・エマヌエレにせい】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

ビットリオ・エマヌエレ2世
ビットリオ・エマヌエレにせい
Vittorio Emanuele II
[生]1820.3.14. トリノ
[没]1878.1.9. ローマ
サルジニア王 (在位 1849~61) ,次いでイタリア王 (在位 61~78) 。 1849年3月ノバラの戦いで敗れた父王カルロ・アルベルトが退位した跡を継いで,戦陣で国王に即位。オーストリア将軍 J.ラデツキーとの休戦協定が国王になってからの最初の行為となった。次いでミラノで講和条約を結んだが,議会が批准を拒否したため,49年 11月議会を解散,同時にモンカリエーリ宣言を発して立憲議会制を維持していくためには穏健派が議会で多数となることが必要であると訴えた。 52年 C.カブールを首相に登用して議会政治を軌道に乗せるが,2人の関係はこののち必ずしも友好的なものではなかった。 59年4月に始められたサルジニア王国=フランス連合軍とオーストリアの戦争では,みずから前線で指揮をとり,ソルフェリノの戦いで勝利に導いた。同年7月ナポレオン3世が単独でオーストリアとビラフランカの和議を結ぶと,不満を示しながらもやむをえず署名,カブール首相の抗議の辞任を招いた。 60年5月に実行された G.ガリバルディら「赤シャツ千人隊」のシチリア遠征をひそかに支持し,ガリバルディも「イタリアとビットリオ・エマヌエレ2世」の名においてシチリアでの独裁権を行使した。同年9月ガリバルディがナポリを占領すると,国王はただちに兵を率いてナポリに向い,10月ガリバルディの征服地を献上された。 61年3月イタリア王国の成立が宣言されてビットリオ・エマヌエレが初代国王に推されたが,サルジニア王国からイタリア王国への連続性を主張して「2世」の名を変えることをしなかった。 70年ローマをイタリア王国に併合したあと王宮をローマに移し,73年ベルリン,ウィーンを訪問して,のちの三国同盟の基礎をつくった。 78年波乱の生涯を終え,長男のウンベルト1世が王位を継いだ。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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