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フィレンツェ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

フィレンツェ
Firenze
イタリア中部,トスカナ州州都。フィレンツェ県の県でもある。英語でフローレンス Florence。周辺は昔から花卉の名産地で,町の名称もそれに由来する。ローマ北北西約 230kmに位置し,アルノ川に臨む。古くから交通の要地として栄え,4世紀にはキリスト教の司教座が置かれ,中世には絹・毛織物工業繁栄したが,13~14世紀には教皇派と皇帝派に分かれて抗争した。15世紀中期からメディチ家支配が始まり,その保護下でレオナルド・ダ・ビンチラファエロ・サンツィオ,ミケランジェロらが活躍,ルネサンス文化が開花した。17世紀にはトスカナ大公国の首都となり,1865~71年はイタリア王国の首都。その後もトスカナ地方の文化,商業の中心地であった。ピッティ美術館(→パラッツォ・ピッティ),ウフィツィ美術館をはじめ約 40の美術館,1349年創立の大学,美術,工芸を中心とする人文関係の研究所が多数あり,また金銀細工,ガラス,陶器皮革,麻製品など工芸の中心地でもある。化学,精密機械工業も発達。建築家フィリッポ・ブルネレスキの設計による 13~15世紀の歴史的建造物が多く,サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂サン・ロレンツォ聖堂などがある旧市街は 1982年世界遺産文化遺産に登録された。またフィレンツェと近郊の田園地帯に点在するメディチ家のビラ(別荘)と庭園が 2013年世界遺産の文化遺産に登録された。面積 104km2。人口 37万1282(2011推計)。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉

フィレンツェ(Firenze)
イタリア中部の古都トスカーナ州の州都。ローマ時代に建設され、中世には強力な共和政都市国家形成メディチ家の支配のもとでイタリアルネサンスの中心地となった。多くの歴史的建築物が残り、美術館が多い。1982年「フィレンツェ歴史地区」として世界遺産(文化遺産)に登録された。名は花の都の。英語名フローレンス。

出典:小学館
監修:松村明
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デジタル大辞泉プラス

フィレンツェ
イタリア、アウロラ社の万年筆ボールペンの商品名。ベッキオ橋などフィレンツェの建造物をイメージ。

出典:小学館
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世界大百科事典 第2版

フィレンツェ【Firenze】
イタリア中部,トスカナ州の州都。英語,フランス語ではFlorence(フローレンス,フローランス)。人口39万2800(1994)。かつてルネサンス文化の中心であり,今日でも旧市街は〈都市博物館〉といわれるほど多くの記念物がある。
[ローマ都市からの発展]
 ローマの植民都市としてアルノ川の渡河点に建設され,ローマと北イタリアとの関係が密接になった前1世紀には重要な都市となった。ほかの都市と同様に初期中世の混乱期に都市の規模は収縮したが,ランゴバルド時代,フランク時代にも地方行政の中心としての機能を保持していた。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

フィレンツェ【Firenze】
イタリア中部、アルノ川流域にある観光都市。皮革・製靴・陶器などの工業が盛ん。中世には毛・絹織物工業で繁栄。イタリアルネサンスの中心地。歴史的な建築物や美術品が豊富。英語名フローレンス。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

フィレンツェ
ふぃれんつぇ
Firenze
イタリア中部、トスカナ州の州都で、フィレンツェ県の県都。名称は「花の都」の意味で、英語名フローレンスFlorence。人口35万2227(2001国勢調査速報値)。ローマの北北西277キロメートル、アルノ川両岸の丘陵と扇状地の上に位置する文化・学術都市。とりわけ中世後期からルネサンス期にかけて、文学や美術の世界的中心地となり、その遺産が今日に伝えられている歴史・観光都市として知られる。なお1982年に歴史地区は世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
 古くから、アルノ川沿いの交通路と、アペニン山脈を越える交通路を結ぶ交通の要所として発展した。気候は温暖で、平均気温は1月5.6℃、7月25℃である。イタリアを南北に結ぶ鉄道の幹線上に位置し、ローマ、ミラノ、ベネチアと連絡する。また西のリボルノ、北東のファエンツァ、ラベンナにそれぞれ支線が延びている。同じく、イタリアを南北に貫く高速自動車道路が市の南西部を通っており、イタリア各地と結ばれる。空港は北西にペレトラ空港がある。産業では、家具、陶器、手袋や靴などの皮革製品、金銀細工、刺しゅうを施した織物などの精巧な手工芸品が有名である。ミラノと並んで婦人服生産も活発で、ピッティ宮殿などでファッション・ショーが開催され、外国からも多くのバイヤーが訪れる。また、年間を通して世界中から訪れる多くの観光客があり、ホテルなどの観光産業が盛んである。[藤澤房俊]

建造物・文化施設

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は13世紀末に建築が始められ、高さ112メートルの赤い丸屋根は、15世紀初めにブルネレスキによって建築された。大聖堂が共和国時代のフィレンツェの宗教的中心地であるのに対して、政治的中心地であったのがシニョリーア広場である。広場に面して共和国の政庁であったベッキオ宮殿が建つ。宮殿は13世紀末に着工され、高さ94メートルの塔をもつ。ウフィツィ美術館は1560年にジョルジョ・バザーリの設計でつくられたメディチ家の政庁で、現在はルネサンスの巨匠たちの作品を収蔵している。アルノ川に架かるベッキオ橋(ポンテ・ベッキオ)は、橋全体が2階建ての建物になっており、1階に商店が並ぶ特異なもので、1345年に完成した。橋の南にあるピッティ宮殿は15世紀の建造、現在はピッティ美術館となっている。同美術館は16~17世紀の絵画を展示する。ほかにルネサンス時代の彫刻を集めたバルジェッロ美術館、ミケランジェロの彫刻を収めるアカデミア美術館などがある。これら美術館・博物館の数は町全体でおよそ40にも及び、町自体が一つの美術館・博物館の観を呈している。教会では、フラ・アンジェリコと弟子たちが多数のフレスコ画を描いたサン・マルコ修道院、ルネサンスの宗教建築の最高傑作の一つに数えられるブルネレスキ設計のサン・ロレンツォ聖堂などが知られる。さらに、蔵書400万冊を擁する国立中央図書館、古い写本を多く収蔵するミケランジェロ設計のラウレンツィアーナ図書館、1924年創設のフィレンツェ大学などの文化施設がある。[藤澤房俊]

歴史

エトルリア起源説は疑わしいが、紀元前20~前30年ごろにローマ人が植民、帝政時代に発達した。紀元後5世紀のゴート人による破壊後、カール(大帝)の来訪(786)をきっかけに復興が始まった。トスカナ女伯マティルデ(1070年伯位相続)の時代に貴族と有力市民を核とする自治が始まるが、コムーネ(自治都市)の形成は1120年代である。1215年貴族がグェルフ党(教皇党)とギベリン党(皇帝党)に分裂し戦った結果、前者と大商人が政権を握った。以後貴族間の抗争、支配圏拡張戦遂行の過程で大商人が勢力を伸張し、1250年、1282年の憲法改正を経て、1293年「正義の規定」を制定した。これによりアルテ(同業組合)がコムーネの政治基盤となり、2か月ごとに組合員から選出される代表プリオーレが行政執行府を構成、貴族の行動は著しく制約されることとなった。また1290年代にはフィレンツェ商人は教皇庁より徴税業務を委託され、金融業、貿易面で国際的に活躍した。毛織物工業も従来の羊毛布の輸入―加工―輸出型から、原料よりの一貫生産に切り替えられ、経済は飛躍的に発達した。年代記作家ビッラーニGiovanni Villani(1276ころ―1348)によると、1338年にこの都市国家は9万の人口を擁し、ヨーロッパで五指に入る大都市であった。
 しかし、商路確保のため近隣諸都市との戦いが相次ぎ、戦費捻出(ねんしゅつ)のための重税が経済不振と社会不安を招いた。そこで不満を抑えるために市政府はアテネ公グアルティエーリと契約する。やがてアテネ公は自ら統領の座につくが、わずか1年で追われ、1343年、より広い政治基盤にたつ新体制が発足する。しかし数年後、バルディ銀行を筆頭に大銀行の破産が続出、1348年ペストが未曽有(みぞう)の猛威を振るい、人口は半減、市場は縮小、景気は悪化した。そのうえ1375~1378年には教会を相手に「八聖人戦争」を戦うなど、これら悪条件の重なりが、1378年の「チョンピの乱」となって爆発する。この毛織物工業の下層労働者の暴動により一時政局は麻痺(まひ)するが、一揆(いっき)はまもなく鎮圧され、結局この動きの黒幕の新興大商人グループの寡頭体制が進んだ。
 1380年代後半より商業貿易が上向き、1412年前後の十数年間、フィレンツェは黄金時代を迎える。絹織物工業と工芸品産業の好景気と海上権確立によるものであった。1422年ミラノの拡張政策が始まると、フィレンツェは例のごとく戦費調達―重税―経済不振の悪循環に陥り、旧家アルビッツィと新興勢力メディチ家の対立が深まる。そして1434年コジモ・デ・メディチが実権を握り、以後同家を軸とする寡頭支配時代に入る。1494年メディチ家は共和国を追われ、フィレンツェにはより民主的な政治体制が敷かれる。やがてサボナローラのいわば神政が始まるが、彼は教皇と正面衝突のあと、市民にも離反され、1498年処刑された。1512年メディチ家がカール5世の軍と教皇の後押しで復帰し、憲法が廃止され、共和制は解体する。1527年市民は再度メディチ家を追放、1530年まで共和制が復活するが、スペイン軍の前にフィレンツェは降伏、メディチ家が権力の座につき、共和制は実質的に倒れ、1532年同家のアレッサンドロが公爵に叙され、フィレンツェ共和国は形のうえでも終焉(しゅうえん)する。
 1537年即位したコジモ1世は、官僚機構の整備、属領統治など国家形成に力を注いだ。1569年トスカナ大公国成立によりフィレンツェはその首都となるが、1731年メディチ家断絶後、ロレーヌ家に継承され、とくに啓蒙(けいもう)君主レオポルトの在位期(1765~1790)とレオポルト2世の治世の初期(1824~1849)、トスカナ大公国およびフィレンツェには活性化がみられた。リソルジメント(イタリア統一運動)の高まりのなかで、1859年大公は退位し、1860年国民投票によりイタリア王国への併合が可決され、1865~1870年の間、フィレンツェは同王国の首都であった。[在里寛司]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

フィレンツェ
(Firenze) イタリア中部の都市。トスカナ州の州都。起源は古代ローマの自治都市フロンティアないしはそれ以前の集落ビラノバにさかのぼる。一三~一四世紀には金融業や毛織物工業、一五世紀には絹織物工業で栄え、メディチ家の支配のもとでイタリア‐ルネサンス文化の中心地となった。近世にはトスカナ公国の首都、一八六五~七〇年にはイタリア王国の首都。英語名フローレンス。

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旺文社世界史事典 三訂版

フィレンツェ
Firenze
中部イタリア,トスカナ地方の中心都市
アルノ川に面した交通の要地で,中世後期に毛織物生産,金融業の中心地となった。教皇党皇帝党対立,大市民と小市民の対立の中からコムーネ(自治体)による共和政が樹立され,13世紀末には市民の権利を擁護する「正義の規定」が生まれて民主政が確立した。15世紀に大富豪メディチ家の独裁が確立し,その保護の下にルネサンス芸術が栄えた。15世紀末からドイツ・フランス間のイタリア戦争で打撃を受け,昔日の繁栄ぶりを失った。フランス王シャルル8世のイタリア遠征を機に没落し,新航路の開拓によってその経済的地盤も徐々に崩壊した。16世紀にはトスカナ公国,1865〜70年にはイタリア王国の首都となる。

出典:旺文社世界史事典 三訂版
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