●フマーユーン
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
フマーユーン
Humāyūn Nāsir al-Dīn Muhammad
[没]1556.1. デリー
インド,ムガル帝国第2代の皇帝 (在位 1530~56) 。初代皇帝バーブルの跡を継いで帝位についたが,アフガン系のシェール・シャーと戦って敗れ,イランに逃れてサファビー朝の庇護を受けた。 1555年サファビー朝の援助によりインドを攻め,デリーを奪回してムガル帝国を再建した。翌年不慮の死をとげ,その子アクバルが 13歳で帝位についた。
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デジタル大辞泉
フマーユーン(Muhammad Humāyūn)
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世界大百科事典 第2版
フマーユーン【Humāyūn】
ムガル帝国第2代皇帝。在位1530‐40,1555‐56年。帝国の創始者である父王バーブルの死後皇帝位に就き,1535年マールワ,グジャラートを征服したが,ラージプートとの連合には失敗し,すぐに両地方とも失った。ビハール,ベンガル地方で勢力を拡大しスール朝を建てたアフガン系のシェール・シャーと戦い,39年,ベンガルのチャウサで大敗した。翌年カナウジ近くでの戦いにも敗れ,フマーユーンはデリーを追われ,シンド,マールワール地方を点々とし,ムガル帝国は一時中絶した。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
フマーユーン
ふまーゆーん
Humāyūn
(1508―1556)
インドのムガル帝国第2代の皇帝(在位1530~40、1555~56)。父帝バーブルの嫡子。ペルシア文化を好み優雅で教養ある人物であったが、彼の弟たちを擁してしばしば独立を企てる貴族(武将)たちを統率する力に欠けた。そのため自ら征服したグジャラートやベンガルを失い、チャウサ(1539)とカナウジ(1540)の戦いでアフガン豪族シェール・シャー(スール朝の創始者)に続けて大敗し(1540)、西北インドを流亡したのち、ペルシアに逃れた。ここに約15年間ムガル朝は中絶した。アフガニスタンの支配をめぐる弟カームラーンとの戦いに勝利し、貴族たちを統率する力を身につけた彼は、1555年、シェール・シャー死後のスール朝の内紛に乗じてデリーを奪回したが、翌年事故により急死した。
[長島 弘]
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旺文社世界史事典 三訂版
フマーユーン
Muhammād Humāyūn
インドのムガル帝国第2代皇帝(在位1530〜40,55〜56)
バーブルの子。対立者が多く,帝国の基礎が確立しないうちに,1540年アフガン人の将軍シェール=シャーに敗れ,一時サファヴィー朝に亡命した。シェール=シャーの死後,サファヴィー朝の援助の下にデリーに帰還してムガル帝国を再興した(1555)。翌年事故死したため,その子アクバルが年少で即位した。
出典:旺文社世界史事典 三訂版
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