@niftyトップ

辞書、事典、用語解説などを検索できる無料サービスです。

ブレジネフ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

ブレジネフ
Brezhnev, Leonid Il'ich
[生]1906.12.19. ウクライナ,カメンスコエ
[没]1982.11.10. モスクワ
ソ連の政治家。製鉄工場で働き,1927年農業学校を修了後クルスクで測地技師となり,31年共産党に加入。その後金属専門学校を経て,郷里の金属工場に勤務。 38年ドネプロペトロフスクの党地方委員会部長となり,39年同地方委員会書記に就任。第2次世界大戦ではコーカサス (カフカス) ,ウクライナ,チェコスロバキアの戦線に参加し,43年陸軍少将に昇進。 46年ウクライナのザポロジア地区党第一書記として戦後復興を推進し,ウクライナの最高指導者 N.フルシチョフに認められた。 50~52年モルダビア共産党第一書記をつとめ,のちモスクワに出て,52年党中央委員,次いで幹部会員候補となった。 I.スターリンの死後一時格下げされたが,党第一書記となったフルシチョフからカザフスタン開拓の任務をゆだねられた。最初は同地方党第二書記,次いで第一書記として農業増産に業績を上げ,56年2月モスクワへ帰り,党幹部会員候補兼書記の地位に復帰。 57年 V. M.モロトフ,G. M.マレンコフらがフルシチョフに反対した際にはフルシチョフを支持し,党幹部会員に昇進。 60~63年最高会議幹部会議長 (国家元首) となり,64年 10月にはフルシチョフ追落しに成功,党第一書記 (1966以降書記長) に就任した。その後 A. N.コスイギン首相,N. V.ポドゴールヌイ国家元首の3人による集団指導制を宣言したが,次第に権力を自己の勢力で固め,77年にはポドゴールヌイを解任して最高会議幹部会議長をも兼任し,名実ともに第一人者の地位を占めるにいたった。ソ連邦元帥。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブレジネフ
ナベレジヌイエチェルヌイ」のページをご覧ください

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉

ブレジネフ(Leonid Il'ich Brezhnev)
[1906~1982]ソ連の政治家。1952年にロシア共産党幹部会員候補兼書記として頭角を現し、党務関係の要職歴任フルシチョフ失脚で党第一書記(1966年に書記長と改称)となり、国際緊張の緩和平和共存の二原則に基づくいわゆるブレジネフ路線を推進、1977年には最高会議幹部会議長も兼ねた。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版

ブレジネフ【Leonid Il’ich Brezhnev】
1906‐82
ソ連邦の政治家。ウクライナのカメンスコエ(現,ドニエプロジェルジンスク)で金属労働者の家に生まれた。1931年共産党に入党。35年ドニエプロジェルジンスク冶金大学を卒業。第2次世界大戦中は南部戦線での政治委員を務めた。50‐52年モルダビア共和国党第一書記。52年党中央委員会幹部会員候補,党中央委員会書記となったが,翌年スターリン死後の機構改革で解任され,軍総政治部副部長に一時格下げされた。54‐56年カザフ共和国党中央委員会第二書記,次いで第一書記となり,カザフスタンの大規模な開拓事業を指導した。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

日本大百科全書(ニッポニカ)

ブレジネフ
ぶれじねふ
Леонид Ильич Брежнев/Leonid Il'ich Brezhnev
(1906―1982)

ソ連の政治家。12月19日、ウクライナのカメンスコエ(現ドニエプロジェルジンスク)の製鉄労働者の家庭に生まれる。15歳のときから働き始め、1923年に青年共産同盟に入る。1927年にクルスク農学校を卒業後農村で働き、1931年に共産党に入党。1935年に郷里の冶金(やきん)大学を卒業し製鉄技師となる。1937年にドニエプロジェルジンスク市長代理に選ばれてから政治活動に専従し、1939年にはドニエプロペトロフスク州党委員会書記となる。第二次世界大戦中は軍の政治活動を指導し、戦後はウクライナやモルドバで党活動に従事。1952年の第19回党大会で中央委員に選ばれ、党中央委幹部会員候補兼書記となる。1953年のスターリン死後一時格下げされたが、1956年の第20回党大会で返り咲き、1957年には党中央委幹部会員となる。1964年のフルシチョフ失脚後、党中央委第一書記、1966年からは書記長となり、1977年からはソ連最高会議幹部会議長を兼務し、ソ連の党と国家の最高指導者となる。1977年には、ソ連を発達した社会主義社会と規定する憲法を制定するうえで重要な役割を果たした。在職のまま1982年11月に死去したが、死後ブレジネフに対する批判がおこり、1970年代から1980年代にかけてのソ連の経済成長率の低下や社会的・精神的・倫理的な欠陥についての責任が問われた。遺体はモスクワの「赤の広場」に埋葬されている。

[中西 治]

『ブレジネフ選集翻訳委員会訳『ブレジネフ選集1・2』(1978・モスクワ、プログレス出版社)』『中沢孝之著『ブレジネフ体制のソ連』(1975・サイマル出版会)』『ジョン・ドーンバーグ著、木村明生監訳『ブレジネフ』(1978・朝日イブニングニュース社)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

ブレジネフ
(Leonid Il'ič Brježnjev レオニード=イリッチ━) ソ連の政治家。一九五七年共産党中央委員会幹部委員となる。六四年フルシチョフ失脚後、党第一書記となり六六年書記長に就任し、ボドゴルヌイ国家元首、コスイギン首相とともに集団指導体制をとる。七七年からは最高会議幹部会議長を兼任。八二年在職中に死去。(一九〇六‐八二

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

旺文社世界史事典 三訂版

ブレジネフ
Leonid Il'ich Brezhnev
1906〜82
旧ソ連の政治家
1931年ソ連共産党に入党。第二次世界大戦後,州党委員会第一書記・党中央委員会書記をへて,64年フルシチョフが解任されたあと,党第一書記となる。1966年書記長に就任し,77年6月に最高ソヴィエト幹部会議長(国家元首)となる。制限主権論(ブレジネフ−ドクトリン)を唱えて“プラハの春”を弾圧,中国とダマンスキー島珍宝島)で対立し,1979年にはアフガニスタンに侵攻して東西対立を激化させた。内政では自由化を抑え,党機構を肥大化させて長期にわたる経済の停滞を招いた。

出典:旺文社世界史事典 三訂版
執筆者一覧(50音順)
小豆畑和之 石井栄二 今泉博 仮屋園巌 津野田興一 三木健詞
 
Copyright Obunsha Co.,Ltd. All Rights Reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブレジネフ」の用語解説はコトバンクが提供しています。

ブレジネフの関連情報

関連キーワード

児童雑誌ファリエールサンジカリズム鉄筋コンクリート構造ドゥーマ夏目漱石日本郵便制度史(年表)御免内閣総理大臣バン・デ・ベルデ

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.

アット・ニフティトップページへ アット・ニフティ会員に登録

ウェブサイトの利用について | 個人情報保護ポリシー
©NIFTY Corporation