●プリンス
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
プリンス
Prince, Morton (Henry)
[没]1929.8.31. ボストン
アメリカの心理学者,精神医学者。ハーバード大学助教授,同大学に臨床心理学研究所を設立。 S.フロイトの汎性欲説には反対の立場を取ったが,その動的見地を異常心理学に導入,また催眠法を早くから採用,特に二重人格,無意識の研究で知られている。"Journal of Abnormal Psychology"を創刊 (1906) 。主著『ミス・ビーチャムあるいは失われた自己』 The Dissociation of a Personality (06) ,『無意識』 The Unconscious (13) ,『人格の臨床的,実験的研究』 Clinical and Experi-mental Studies in Personality (29) 。
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プリンス
Printz, Johan Björnsson
[没]1663.5.3.
スウェーデンの軍人,政治家。スウェーデン領北アメリカ植民地ニュースウェーデン総督 (在任 1642~53) 。同植民地の繁栄のため手腕をふるったが,そのきびしい政策に植民地人は反発し本国に代表を送って不満を陳情した。 1653年彼はこの行動を反乱とみなし,指導者を絞首刑に処したため植民地人と衝突して,辞任し帰国した。
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プリンス
Prince, Harold
[没]2019.7.31. アイスランド,レイキャビーク
アメリカ合衆国のプロデューサー,演出家。フルネーム Harold Smith Prince。トニー賞受賞作を多数世に送り出した,20世紀のブロードウェーにおける最重要人物の一人とされる。1948年ベンシルバニア大学卒業後,演出家ジョージ・アボットの助手兼舞台監督としてキャリアを積んだ。1953年からミュージカルを手がけ,初めてプロデュースした『パジャマ・ゲーム』The Pajama Game(1954)で大成功を収めてトニー賞を受賞。続く『ウエスト・サイド物語』West Side Story(1957),『屋根の上のバイオリン弾き』Fiddler on the Roof(1964)などのプロデュースで名声を得た。1962年,『ファミリー・アフェア』A Family Affairで演出家としての活動を始めると,スティーブン・ソンドハイムとのコンビで精力的に仕事をこなし,従来のミュージカルとは一線を画する明快なコンセプトをもつ数々のヒット作を生み出した。代表作に,『キャバレー』Cabaret(1966),『スウィーニー・トッド』Sweeney Todd(1979),『エビータ』Evita(1979),『オペラ座の怪人』The Phantom of the Opera(1986)など。
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知恵蔵
プリンス
プリンスという名前は、ジャズミュージシャンの両親が所属していたバンド名に由来する。学生時代はアマチュアバンドで活動し、1977年、米国のレコード会社、ワーナー・ブラザーズと契約を締結した。プロデュース全般を自身が行うという、新人としては珍しい条件で、契約金は破格だったという。78年、アルバム「フォー・ユー」でデビュー。作詞、作曲、編曲、歌唱、演奏、プロデュースを全て1人で行い、27種類の楽器を演奏するという才能を発揮する。当初は過激な歌詞や半裸にサスペンダーの衣装といった奇抜なイメージが先行し、81年、英国のロックバンド、ローリング・ストーンズの前座を務めた際は壮絶なブーイングを受け、腐ったキャベツを投げつけられた。しかし82年、5作目のアルバム「1999」が世界的にヒットする。84年、自伝的映画のサントラでもある6作目のアルバム「パープル・レイン」は全米アルバム・チャートで24週連続1位を獲得し、世界で約1500万枚を売り上げる大ヒットを記録した。このアルバムでアカデミー賞を受賞し、紫がイメージカラーとなる。89年には映画「バットマン」のサントラを担当し、シングル「バット・ダンス」は全米チャートで1位となった。
音楽業界のあり方に反発して独自路線を進むようになり、92年、アーティスト名を男女のシンボルマークを合わせたような、発音不能の記号に改名(後にプリンスに戻す)した。90年代後半にワーナーから離脱する。それと前後して自身のレーベル「NPG」をスタートさせ、インターネットを通じてアルバムを発表する。アルバムごとに異なるレーベルで発表したり、アルバムを新聞の付録としたりするなど革新的な試みも行った。その後は精力的にアルバムを制作しつつ、世界各地でコンサートを展開した。日本のファンからは「殿下」の愛称で親しまれ、86年から2002年にかけて6回来日公演を行った。
16年4月21日、米ミネソタ州の自宅兼スタジオで意識不明の状態で発見され、57歳で亡くなった。現地の捜査当局が死因を確認している。米国のオバマ大統領は「世界は独創的な存在の象徴を失った」という声明を発表、ミック・ジャガーやマドンナといった著名ミュージシャンも続々と哀悼の意を示した。ミネソタ州やニューヨークなど米国各地で追悼集会が行われている。
(南 文枝 ライター/2016年)
出典:(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」
デジタル大辞泉
プリンス(prince)
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デジタル大辞泉プラス
プリンス
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20世紀西洋人名事典
プリンス
Prince
1958 -
ミュージシャン。
ミネアポリス生まれ。
本名プリンス・ロジャーズ・ネルソン。
ブラック・ミュージック界の一大勢力となったミネアポリス一派の長。デビューは1978年、セックスを主題にした歌詞と派手なコスチュームで注目された。’80年の名作「ダーティー・マインド」を経て、’82年の「1999」が大ヒットし、’84年の「パープル・レイン」は自伝的映画と連動して発表され頂点に立った。高度にソウルとロックを融合させポップ・ミュージックを作りだし、後も「パレード」「ラヴセクシー」「サイン・オヴ・ザ・タイムズ」等完成度の高いアルバムを発表。92年ワーナー・ブラザーズ副社長。
出典:日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)
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367日誕生日大事典
プリンス
アメリカのミュージシャン;俳優
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精選版 日本国語大辞典
プリンス
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現代外国人名録2016
プリンス
Prince
- 職業・肩書
- ミュージシャン,俳優
- 国籍
- 米国
- 生年月日
- 1958年6月7日
- 出生地
- ミネソタ州ミネアポリス
- 本名
- ネルソン,プリンス・ロジャーズ〈Nelson,Prince Rogers〉
- 受賞
- アカデミー賞歌曲編曲賞(第57回)〔1984年〕「パープル・レイン」,グラミー賞〔1984年〕
- 経歴
- “プリンス”の名は、ジャズ・ピアニストだった父のトリオ、ザ・プリンス・ロジャーズ・バンドにちなんで命名された。7歳のとき独学でピアノを始める。12歳ですでに20以上の楽器をマスター。その頃、後のマッド・ハウス・サウンドの元となった“シャンペン”を結成し、ローカル・デビュー。18歳のとき、自分でレコード製作を主張、そうでないレコーディング契約をすべてことわったといわれている。1978年「FOR YOU」でアルバムデビューし、主にセックスを主題にした歌詞と派手なコスチュームで注目される。’82年「1999」が大ヒットし、’84年自伝的映画と連動して発表されたアルバム「パープル・レイン」で頂点に立つ。ソウルとロックを高度に融合させたポップミュージックを作り出し、その後も「パレード」(’86年)や「ラブセクシー」(’88年)など完成度の高いアルバムを発表。また自分のレーベル「ペイズリー・パーク」を作り、ミネアポリスに音楽ファミリーを形成する。’80年代を通じて、カルト的なマイナー・アーティストから、20世紀で最も高く評価され、影響力のあるアーティストへと変身する。’90年6月「ヌード・ツアー」でワールド・ツアー開始、8月アルバム「グラフィティ・ブリッジ」発表。同年映画「グラフィティ・ブリッジ」公開。’92年ワーナー・ブラザーズと総額1億ドルで契約を結び、同社の副社長にも就任。’93年4月レコーディング休止宣言、同年6月改名宣言し、発音不能な記号の“シンボル”(元プリンス)として活動を開始。’94年“シンボル”名義でシングルを発表、同年8月プリンス名義の最後のアルバム「Come」を発表。’96年11月アルバム「イマンシペイション(解放)」を発売、宣伝のため来日。’99年“ジ・アーティスト”と改名。2000年再び“プリンス”名に戻す。2007年、24作目となるアルバム「プラネット・アース」を英国の日曜紙「メール・オン・サンデー」の付録として発売。他のアルバムに「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」(1985年)、「バットマン」(’89年)、「ダイアモンズ・アンド・パールズ」(’91年)、「ゴールド・エクスペリエンス」(’95年)、「3121」(2006年)、「ロータスフラワー」(2009年)などがある。
出典:日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」
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