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プロ野球【プロヤキュウ】

デジタル大辞泉

プロ‐やきゅう〔‐ヤキウ〕【プロ野球】
興行として行う野球。職業野球日本野球機構轄するリーグや米国のメジャーリーグなどがあり、多くは前者を指す。
[補説]日本では現在、セントラルリーグに6球団パシフィックリーグに6球団がそれぞれ所属している。通常、毎年3月にシーズンが開幕。

出典:小学館
監修:松村明
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世界大百科事典 第2版

ぷろやきゅう【プロ野球】

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

日本大百科全書(ニッポニカ)

プロ野球
ぷろやきゅう

プロフェッショナル・ベースボールprofessional baseballの日本での略称。職業選手によって興行として行われる野球で、観客を楽しませるために編成された各チームが、リーグ戦形式で百数十試合を行って優勝を争う制度をとっている。

[神田順治・森岡 浩 2020年6月23日]

アメリカのプロ野球

1845年、ニューヨークの技師アレクサンダー・カートライトAlexander Cartwright(1820―1892)により初めて野球規則が制定された。そしてニューヨークに存在したニッカーボッカー野球クラブが最初にこの野球規則によって試合をして大いに人気を博し、非常な勢いをもって普及、発達していった。そして試合ごとに多くの観衆が入場するのを見て取り、野球関係者は、野球競技に必要な経費を、見物人に入場料として課し、完備した球場施設に、よい競技用具を用意して、選手に給料を支給すれば、さらによい試合を見せることができるのではないかと考えた。当時すでに一般大衆は、野球見物に喜んで入場料を支払うほど野球の魅力にひかれていたのである。こうして、プロ野球が初めて生まれたのは1866年のことであった。純然たるアマチュアの選手集団によって組織されたレッドストッキングスは、シンシナティ市で編成された。このチームは2年間一度も敗れず、81連勝を記録して人気を博し、収入も好成績だったので、1869年、公然と職業野球団の名のりをあげた。これが、アメリカにおける職業野球クラブの最初である。レクリエーションを目的としたアマチュア・スポーツの野球から、純然たるプロフェッショナル・チームがここに生まれるに及んで、急速に勝負に重点を置く近代野球に転換していった。

 1871年には、最初の職業野球連盟が9チームによって組織され、全国職業野球団連盟National Association of Professional Baseball Players(ナショナル・アソシエーション)が生まれた。この職業野球団連盟は、もめ事や不正事件などのため、わずか5年で解消したが、職業野球の発展を望む大衆は、優良な職業野球団のための連盟の組織化を強く求めた。こうして1876年2月、ニューヨーク市を中心に大都市を背景として、フランチャイズ・システム(本拠地制)による職業野球団連盟が生まれた。これが今日まで続いているナショナル・リーグ(ナ・リーグ)で、最初の加盟チームは8チームであった。同年、ペナント(優勝旗)を争う第1回のペナントレースを各チーム70試合で行い、シカゴがペナントを獲得した。ナショナル・リーグ結成によって取り残された各都市球団は、インターナショナル・リーグ、アメリカン・アソシエーションなどをつくりあげた。これらがマイナー・リーグの元祖であるが、ナショナル・リーグの実力と権威は他のリーグを引き離し、ついにビッグ・リーグあるいはメジャー・リーグ(大リーグ)とよばれるようになった。しかし、マイナー・リーグは、ナショナル・リーグに反抗的政策をとったので、ナショナル・リーグも苦難のシーズンを送った。

 1900年に一つのマイナー・リーグでしかなかったウェスタン・リーグが、バン・ジョンソンBan Johnson(1864―1931)というスポーツ・ライター出身の実力者を総裁にいただくと、ウェスタン・リーグをナショナル・リーグの本拠地に根を張らせようと図り、ナショナル・リーグの根拠地となっているアメリカ東部の各都市に本拠地を設け、名称もアメリカン・リーグ(ア・リーグ)として乗り出してきた。ここに二大リーグ時代を迎えるわけである。アメリカン・リーグ創設の結果は、その前年(1899)まで12球団によって組織されていたナショナル・リーグが8球団に減り、新たに生まれたアメリカン・リーグも8球団制をとった。アメリカン・リーグの創立にあたって、ナショナル・リーグはまったく協調しなかったので、一時、球界は混乱し動揺したが、アメリカン・リーグの発展をみるにつけ、結局両者は闘争の愚を悟り、共存の道をとるようになった。その結果、1903年にナショナル・コミッションができ、その委員が両リーグから選ばれ、球界一般の指針となるような諸規則や申合せを決定したことで、アメリカ職業野球界は安定の基礎を得た。また、このコミッションは、シーズンの終わりに両リーグの優勝チームの顔合わせを行い、短期のシリーズで優勝争いを試みさせる案を実現した。これが今日行われているワールド・シリーズで、後年、全アメリカの人気を集める大試合に発展した発端であり、1905年以来第二次世界大戦中も中止することなく、毎年行われてきている(1994年は選手会ストライキのため中止)。

 ナショナル・リーグ創設当時は、強豪チームのほとんど全部がその傘下に集まっていたが、のちにアメリカン・リーグが組織されるに及んで、大都市に本拠をもち、名実ともに備わった大野球団のすべてがこの2リーグに集中され、取り残された他球団は実際に実力が低いものとなってしまった。2リーグ以外のマイナー・リーグは、実力順にAAA、AA、A、B、C、Dの6階級に分かれ(現在はAAA、AA、A、ルーキー・リーグの4階級)、ナショナル・アソシエーションという統制機関をつくった。ここにアメリカ職業野球は、オーガナイズド・ベースボールといわれる整った組織となる。

 大リーグは、第三リーグ設立の解決策、人気回復策として、球団数を1900年以来の8チームから10チームに増やすことになり、アメリカン・リーグは1961年、ナショナル・リーグは1962年から実施し、さらに1969年から両リーグとも12チームとなり、各リーグ東西2地区に分割された。1977年からアメリカン・リーグは14チーム、ナショナル・リーグは1993年に14チームとなり、1995年からは東・中・西の3地区制に移行。さらに1998年からはナショナル・リーグが16チームに拡大、2013年にヒューストン・アストロズがアメリカン・リーグに移って、両リーグ15チームずつとなった。

[神田順治・森岡 浩 2020年6月23日]

日本のプロ野球

日本の野球はアマチュア・スポーツ、とくに学生スポーツとして発展した。そのために、プロスポーツとしてはかえって発達を遅らせた。しかし、プロ野球ができなければ、真の野球技の発達はないとの見解から早稲田(わせだ)大学野球部の橋戸信(まこと)、押川清(おしかわきよし)(1881―1944)、河野安通志(あつし)(1884―1946)らの提唱によって1920年(大正9)末、東京・芝浦に日本運動協会が設立され、1922年秋には日本最初のプロ・チームとして、早稲田大学チームと試合した。しかし、このプロ・チームは育たないで終わった。当時日本の野球を代表する学生野球は発展の限度に達し、アマチュアの域を超える傾向が多分にみられた。1931年(昭和6)には、アメリカから一流大リーガーを招いて、東京六大学のチームと対戦したが、1932年文部省が野球統制令を出して、プロとの試合を禁じたため、1934年秋に来日したベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックスら全アメリカ軍と対戦するために、社会人から全日本軍が編成された。この全日本のチームを母体として同年12月、大日本東京野球倶楽部(クラブ)、すなわち今日の読売ジャイアンツ(巨人)が正力松太郎(しょうりきまつたろう)によって結成された。当時ほかに相手になる職業チームがなかったため、翌春第1回の渡米を試み、プロ球団として技を磨いている間に、正力は、プロ球団創設のため共鳴する資本家を求め、1936年巨人(東京巨人)のほかに大阪タイガース、東京セネタース、阪急、名古屋金鯱(きんこ)、大東京、名古屋の7チームが生まれた。続いて日本職業野球連盟(1939年日本野球連盟に改称)が結成されたが、第二次世界大戦のため活動を休止した。

 1945年(昭和20)11月連盟復活が決まり、以後、隆盛の一途をたどったが、1949年末、新球団加入をめぐり8球団を二分して2リーグとしたため、日本野球連盟は解散した。巨人、阪神を中心とするセントラル・リーグ(セ・リーグ)と南海、阪急、大映、東急と新球団の毎日以下のパシフィック・リーグ(パ・リーグ)となった。ついで、1951年にはコミッショナーを決定し、また野球協約に基づく統一契約書を作成した。これらはアメリカの野球に倣ってプロ野球としての体裁を整えたものである。しかし、コミッショナー制度と選手との統一契約書は、いちおうの混乱を防いではいるが、規約そのものは十分なものではない。また、1985年には、選手の労働組合として日本プロ野球選手会が設立され、諸要求を定め、以降、日本野球機構(NPB。日本野球連盟の後身)と交渉している。

[神田順治・森岡 浩 2020年6月23日]

興行法・フランチャイズ制

アメリカでは、1903年にナショナル・コミッショナーが選ばれたときに、フランチャイズ(本拠地)を確立した。すなわち、人口200万以上の大都市には2球団、その他の都市は1球団としたものである。しかしその後、フランチャイズの移動がしばしば行われだした。ニューヨークにあったジャイアンツがサンフランシスコに、ドジャースがブルックリンからロサンゼルスに移転し、カナダのモントリオールが新たに大リーグ所在地となったこと(エクスポズ)などが大きな話題である。

 大リーグの場合、3月下旬から4月上旬にシーズンが開始され、9月下旬から10月上旬までペナントレースを行う。各チーム162試合を行い、その半数81試合を自分の本拠地、すなわちフランチャイズの都市で開催し、残りの81試合は相手の本拠地に遠征して試合をし、この162試合の勝率を争うのである。そのとき、自分の本拠地の試合収入は全部収得できるが、相手の本拠地へ遠征して行う試合の諸費用は、全部、訪問する球団の負担となる。これをフランチャイズ・システムという。

 そして、両リーグの優勝チームによるワールド・シリーズ(7回戦制、1903、1919~1921年は9回戦制)を行っている。またシーズン中オールスター・ゲームを行い、収入を選手の厚生資金にあてている。これは1933年にシカゴで開かれたのが最初である。

 1969年から1リーグ12チームとし(1977年からアメリカン・リーグは14チーム、東西7チームずつ)、東地区と西地区に分け、自地区で18試合総当り(ア・リーグは13試合)、他地区で12試合総当りの162試合を行い、さらに東西両地区の1位どうしでリーグの5回戦制の優勝決定戦を行い、3勝したチームがリーグの優勝チームとして(1985年から7回戦制の4勝したチームが優勝)、ワールド・シリーズに出場していた。1994年からは、ナショナル(14チーム、1998年から16チーム)、アメリカン(14チーム)両リーグとも、東地区、中地区、西地区の3地区に分けて、3地区の優勝チームと地区1位以外の最高勝率のチーム(ワイルドカードとしての追加枠)の4チームでリーグ優勝を争い(準決勝にあたるディビジョン・シリーズは5回戦制、リーグの優勝を決めるチャンピオンシップ・シリーズは7回戦制)、さらにワールド・シリーズ(7回戦制)を行うようになった。

 日本のプロ野球団は、1人の資本家あるいは2人の合資で経営しているアメリカの興行法とは異なり、創立当初から新聞社、電鉄会社、映画会社などが宣伝のための子会社式に始めたものである。そのため、運営の方面となると、欠損になれば親会社が埋める制度をとっているので、実際には独立採算制をとるまでに至っていない。都心に近い専属球場をモットーにしているアメリカのプロ野球に対し、電車収入を計算して郊外球場が存在している状態である。創立当初から球場に困り、東京に上井草(かみいぐさ)球場・洲崎(すさき)球場をつくったが、施設が整っておらず、球場らしいのは兵庫県西宮(にしのみや)市の甲子園球場だけであった。西宮球場が1937年(昭和12)5月、東京の後楽園球場が同年9月に落成した(後楽園球場は1987年解体され、1988年屋根付き球場「東京ドーム」が完成)。

 なお、パ・リーグは1973年(昭和48)から1年2シーズン制を実施したが、1983年から従来の1シーズン制に戻した。

[神田順治・森岡 浩 2020年6月23日]

ドラフト制

アメリカではフリー・エージェント・ドラフト制度free agent draftが採用されている。これはプロ・フットボールの選手採用制度を野球に取り入れたもので、抽選で選手の獲得を行う制度である。

 日本でも1965年(昭和40)にこの制度に倣い、契約金のつり上げを防止するために採用された。新人選手選択規定として同年4月に決定され、以後球団ごとの新人選手の契約を認めないこととなった。各球団が希望する新人選手を抽選による順番に従って選択し、交渉権をとる。2001年(平成13)からはドラフト制との併用で「自由獲得枠」制度が導入され、自由競争による選手獲得が1球団2名(高校生を除く)に限り可能になった。2005年以降、「自由獲得枠」は「希望入団枠」とされ、高校生を除く新人選手を1球団1名獲得できることとしたが、この制度は2007年から廃止された。また、2005年からは育成選手だけを対象とした育成ドラフトが開催されている。毎年、秋に新人選手選択会議(ドラフト会議)が開かれる。

[神田順治・森岡 浩 2020年6月23日]

フリーエージェント制

1987年(昭和62)から、プロ野球にフリーエージェント(FA)制導入をめぐって、労働組合の日本プロ野球選手会と、経営者である日本野球機構との間で議論が繰り返されていた。1991年(平成3)3月、選手会は、(1)一つの球団に7年間(入団時21歳未満の者は10年)在籍し、182試合以上に出場(投手および捕手は91試合)、(2)455試合以上に登録、のどちらかの条件を満たせば、希望の球団への移籍、もしくは一定額のボーナスを獲得する権利を得る、という骨子でFA制要求案を提出した。さらに1992年12月、選手会はドラフト制の欠点を指摘し、一軍選手のFA制導入のためにはストライキも辞さないとの強硬姿勢を表明した。これを受けて1993年1月、野球機構内のFA問題等研究専門委員会はFA制の早期導入を決定した。1993年9月、野球機構と選手会との合意が成立し、同年オフからFA制が実施された。

 FA資格を一度行使した選手でも、それ以後3年(1997年より4年)ごとにまた行使でき、再度自由に移籍できる点で、機構側は選手会に大きな譲歩をしたとみせかけて、選手側が強く要望した7年での資格取得の点は承認せず、事実上は野球選手の10年(1997年より9年)の停年制(「それ以上在籍するには手続きが必要」という一種の定年制のようなもの)をしくような結果になった。その後、2008年には国内移籍のFA権で高卒選手は累計8年、大学・社会人出身選手は7年に短縮。また累計9年で海外移籍のFA権を取得でき、アメリカの大リーグへ移籍するためのポスティングシステムの導入と相まって、トップ選手の大リーグ流出が加速した。

[神田順治・森岡 浩 2020年6月23日]

『神田順治著『近代野球論』(1958・杏林書院)』『鈴木惣太郎著『アメリカ野球史話』新装版(1978・ベースボール・マガジン社)』『森岡浩編著『プロ野球人名事典2001』(2001・日外アソシエーツ)』『ベースボール・マガジン社編・刊『日本プロ野球80年史 1934―2014』(2014)』『出野哲也編著『メジャー・リーグ球団史――ナショナル&アメリカン・リーグ30球団の全歴史』(2018・言視舎)』『Hy Turkin & S.C.ThompsonThe Official Encyclopedia of Baseball(1950, A.S.Barnes & Co.)』

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精選版 日本国語大辞典

プロ‐やきゅう ‥ヤキウ【プロ野球】
〘名〙 (プロは「プロフェッショナル」の略) 興行として行なわれる野球。職業野球。
※自由学校(1950)〈獅子文六〉自由を求めて「プロ野球にいかない時は」

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