●ベイルート
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
ベイルート
Beirut
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デジタル大辞泉
ベイルート(Beirut)
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世界大百科事典 第2版
ベイルート【Beirut】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
ベイルート
べいるーと
Beirut
レバノンの首都。同国西部にある、東地中海沿岸の港湾都市。人口193万7000(2010年、世界銀行推定)。レバノンの総人口のおよそ46%にあたる人々が暮らす。
古来、この天然の良港を巡る激しい戦いが繰り広げられた。古代、海上交易に従事したフェニキア人の拠点として繁栄、ローマ帝国領時代は政治、商業、学問の府として栄えた。7世紀前半からイスラム圏に入り、12世紀には十字軍の支配下に、16世紀からはオスマン帝国の支配下に入った。19世紀にヨーロッパ諸国の進出が活発になると、港湾都市として大きな発展を遂げた。第一次世界大戦後フランスの委任統治下でシリア・レバノンの首都に、1943年のレバノン独立でその首都となった。
1975年に内戦が始まるまでは、中東の金融、商業、情報、観光、学問の一大中心として「中東のパリ」と謳(うた)われたコスモポリタンな都市だった。1970年にヨルダンを追放されたパレスチナ解放機構(PLO)がベイルートに本部を移し、多くのパレスチナ人も流入した。キリスト教徒と、パレスチナ人を含むイスラム教徒との対立が激しくなり、内戦に突入した。
東ベイルートにはキリスト教徒が集中し、マロン派、ギリシア正教派、アルメニア教会派、カトリックなどがいる。西ベイルートはイスラム教徒地域でスンニー派が多かったが、イスラエル軍の空爆から逃れてきた南部のシーア派が流入、急増した。かつてはユダヤ人コミュニティも存在したが、内戦で多くがベイルートを離れた。イスラム教徒、キリスト教徒の混在していた旧市街は15年に及ぶ内戦でがれきの山と化して流入民が住み着き、郊外には南部から入ってきたシーア派がスラムを形成し、パレスチナ人の難民キャンプもつくられた。1982年のイスラエル軍による猛爆撃でパレスチナ解放機構はレバノンを追放されたが、その後も諸派入り乱れての内戦が1990年まで続いた。
内戦終結後の1992年に首相の座についたラフィク・ハリーリRafiq al-Hariri(1944―2005)は、もともとサウジアラビアでの建築業で財を築いた人物。テクノクラート中心の内閣を組閣して本格的な戦後復興に乗り出し、湾岸諸国から多額の資金が流入した。ベイルートには高級ホテルが建ち並び、官庁、住宅、オフィス街を組み合わせた複合地区の整備が急速に進んだが、インフラ整備に多額の予算を投じた結果、公的債務が財政を圧迫した。1990年代末から回復基調は鈍化し、2001年の国内総生産(GDP)成長率は1%にとどまった。2004年10月まで首相を務めて内戦復興を率いたハリーリは、退任後の2005年2月にベイルート市内で暗殺され、南郊のベイルート国際空港は、彼にちなんでラフィク・ハリーリ国際空港と改称された。
1976年から駐留していた「アラブ平和維持軍」の主体をなすシリア軍は、1989年のタイフ合意(国民和解憲章)で部分撤退が合意され、2001年にベイルートとその周辺地域から撤退した(シリア軍は2005年にレバノンから撤退)。隣国シリアの内戦がレバノンにも飛び火する懸念が高まるなか、2012年10月、ベイルート市内で発生した爆弾テロにより8名が死亡した。
[勝又郁子]
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精選版 日本国語大辞典
ベイルート
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