●ペレストロイカ
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
ペレストロイカ
Perestroika
出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
デジタル大辞泉
ペレストロイカ(〈ロシア〉Perestroyka)
出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
世界大百科事典 第2版
ペレストロイカ【perestroika】
出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.
日本大百科全書(ニッポニカ)
ペレストロイカ
ぺれすとろいか
Перестройка/Perestroyka ロシア語
日本では「再編」「改革」「変革」などと訳されているが、本来のロシア語では、「再」もしくは「直す」という意味の接頭語Pere‐と「建物」を意味する名詞のstroykaを組み合わせたものであるから、文字どおりは「建て直し」「改築」を意味することばである。英語ではreconstruction, restructuringと訳されていることが多い。ソ連のゴルバチョフ政権が掲げた、ペレストロイカ、グラスノスチ(公開性)、ウスコレーニエ(加速化)の三つの標語のうち、要(かなめ)の位置を占めている。
ゴルバチョフは1985年3月、チェルネンコの死でソ連共産党書記長に就任するや、翌4月の党中央委員会総会で、1970年代末から1980年代初めにかけてソ連経済に「困難」が存在していたことを率直に認め、まず「経済発展の加速化」の課題を提起し、ついで反アルコーリズム・カンパニヤなどで「人間的要因の活発化」を強調した。1986年2~3月の第27回党大会では、一部に「ラジカルな改革」への言及もあったが、全体としては新政権発足後1年間の路線を集大成し、技術革新を軸とする「加速化戦略」に経済メカニズムの「改善」と「人間的要因の強化」を組み合わせたものと一般には理解されていた。
ペレストロイカが中心課題として真正面に据えられたのは、1987年1月の中央委員会総会に始まる。この総会では、ペレストロイカは政治改革、民主化問題と結び付けて提起され、この前後からマス・メディアでは1930年代批判の論陣が一斉に張られ、「第二次スターリン批判」ともいうべき雰囲気が醸し出された。これと並んで、「ラジカル」な経済改革の方向が設定され、6月の中央委総会で採択されて同月末の最高会議で正式に法律となった「国営企業法」その他で、当面の整合的な経済改革の構図が示された。反対に、このあたりを境に「加速化」には言及されることが少なくなり、「加速化のためにもペレストロイカ」というふうに明らかに重点が移動することになった。1987年11月7日の十月革命70周年記念日を前にして、ブハーリン、ジノビエフ、トムスキー、ラデックその他、トロツキーを除くかつての指導的政治家の名誉回復の方向がほとんど確定し、ソ連史書き直しの口火を切った。
ペレストロイカということばはきわめて多義的に用いられているが、経済、社会、政治から民衆心理までを含む、広い意味の「建て直し」「活性化」路線と解することができよう。この「建て直し」の対象となっているのは、1930年代にその基本的枠組みができあがったソ連社会のあり方のすべてであるから、ゴルバチョフがこれを十月革命に次ぐ「第二の革命」とよんだのも、理由のないことではない。ペレストロイカは確かに「上から」の建て直しという性格が強いが、それは、1920年代末から1930年代なかばにかけて、スターリンの「上からの革命」でつくりあげられたソ連社会の骨格を変えようとしている点で、まさに逆の目標を追求していたものということができる。その「限界」を指摘するのは容易であるが、改革派知識人の批判の目が、1930年代ばかりか、部分的には十月革命の「暗部」にも向けられたという意味で、市民社会意識の覚醒(かくせい)を促したことを見落とすべきではない。
1930年代のアメリカにおけるニューディール(新規巻き直し)を生み落としたのが1929~1933年大恐慌であったのと同様に、ペレストロイカは直接的には1979~1982年の経済危機と、間接的には1970年代初めからの停滞を背景としていた。しかし、深い経済危機を背景とする激しい政治的、社会的および民族間の対立抗争は、社会主義の枠内での刷新を目ざすペレストロイカの枠を超え、1991年8月のクーデターを契機とするロシア共和国大統領エリツィンの主導権掌握と共産党解体、同年12月のソ連解体と連邦大統領ゴルバチョフの退陣というめまぐるしい経過を経て、ペレストロイカはその幕を閉じ、社会主義崩壊と全面的な再資本主義化に道を譲った。
[佐藤経明]
『ゴルバチョフ著、田中直毅訳『ペレストロイカ』(1987・講談社)』▽『ゴルバチョフ著、鈴木康雄他訳『ゴルバチョフ回想録』上下(1996・読売新聞社)』▽『塩川伸明著『終焉の中のソ連史』(1993・朝日新聞社)』▽『塩川伸明著『社会主義とは何だったか』(1994・勁草書房)』▽『塩川伸明著『ソ連とは何だったか』(1994・勁草書房)』
出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
精選版 日本国語大辞典
ペレストロイカ
出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
旺文社世界史事典 三訂版
ペレストロイカ
perestroika
ロシア語で「建て直し」の意。1985年にソ連共産党書記長になったゴルバチョフは,硬直化したソ連の体制を活性化しようとして,企業活動の自由化,人民代議員大会の設置,共産党の国家との分離などに着手した。「グラスノスチ(情報公開)」と連動し,社会主義の枠内で進めたはずの改革は,しだいにソ連の存立を揺るがすようになった。1990年には共産党一党独裁が放棄されるいっぽうで,共和国の主権要求,連邦からの自立傾向が強まった。また,市場経済への移行をめざす改革はかえって経済の混乱を招いた。1991年8月,ソ連共産党は解散し,12月にはソ連も消滅して,ペレストロイカは改革すべき体制を失って終わった。
出典:旺文社世界史事典 三訂版
執筆者一覧(50音順)
小豆畑和之 石井栄二 今泉博 仮屋園巌 津野田興一 三木健詞
Copyright Obunsha Co.,Ltd. All Rights Reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
「ペレストロイカ」の用語解説はコトバンクが提供しています。
●ペレストロイカの関連情報
関連キーワード
| スペースシャトル飛行記録| [各個指定]工芸技術部門| 柴田翔| 朝鮮映画| 皮革工業| 丸山圭三郎| テレビジョン史(年表)| 今西祐行| 北村太郎| 指紋押捺制度|