●マサリク
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
マサリク
Masaryk, Jan Garrigue
[没]1948.3.10. プラハ
チェコスロバキアの政治家。 T.マサリクの息子。 1907年アメリカに渡ったが,第1次世界大戦の直前にプラハに戻り,大戦中はハンガリー連隊に従軍。 18年チェコスロバキア独立とともに外務省に入り,19年アメリカ駐在代理公使,20年イギリス駐在参事官,21年 E.ベネシュ外相の秘書。 25年以来,イギリス駐在公使として活躍したが,38年9月 30日ミュンヘン協定に抗議して辞職。第2次世界大戦中は,ロンドン亡命政府の外相として,ロンドンから占領下のチェコスロバキアに放送を続け,戦後 45年7月帰国,ベネシュ大統領のもとで外相。 48年2月 25日の共産党のクーデター後もしばらく外相に留任したが,3月 10日死体となって発見された。秘密警察が殺して,外務省の建物から投身自殺したと見せかけたという説が強い。
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マサリク
Masaryk, Tomáš Garrigue
[没]1937.9.14. プラハ近郊ラニ
チェコスロバキアの哲学者,政治家。スロバキア人の御者の子。小学校を出て一時職人の徒弟となったが,教師を望んでブルーノ,ウィーンで学び,1876年ウィーン大学で哲学博士号を獲得。 82年プラハ大学教授。 83年月刊評論誌『アテナエウム』を刊行。 91年青年チェコ党から初めてオーストリア帝国議会に選出された。 93年議員をやめ,同年 10月,月刊評論誌『ナシェ・ドバ』を創刊,レアリストと呼ばれるグループが形成された。 1907年本格的な政治活動を開始。第1次世界大戦勃発を契機に,オーストリア帝国からのチェコスロバキア独立を連合国側に精力的に訴え,その支持を得た。 18年 10月チェコスロバキア初代大統領に選ばれ,35年まで在職。著書は『具体的論理の基礎』 Zakladove Konkretni Logiky (1885) ほか多数。
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デジタル大辞泉
マサリク(Tomáš Garrigue Masaryk)
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世界大百科事典 第2版
マサリク【Tomáš Garrigue Masaryk】
チェコスロバキアの哲学者,政治家。モラビアの農村の生れ。徒弟奉公などを経験したが,苦学の末ウィーン大学を卒業し,1879年には大学教授資格を取得し,82年にプラハのカレル大学(現,プラハ大学)に新設されたチェコ人部門の哲学教授となった。学者としては論理学,歴史哲学,ロシア思想など,広い分野で著作を発表し,当時は新しい学問であった社会学を初めてチェコに導入したことでも功績があった。また当時の社会問題にも関心を示し,しだいにチェコ人の民族運動にも加わるにいたり,オーストリア帝国議会にも議席を得たが,キリスト教的ヒューマニズムに基づく民族主義を唱え,排他的民族主義を批判した。
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