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マニ教【マニきょう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

マニ教
マニきょう
Manichaeism
ゾロアスター教から派生し,キリスト教 (→グノーシス派 ) と仏教の要素を加えた古代ペルシア宗教。教祖マニの名をとってマニ教と名づけられた。中央アジア一帯に急速に広まり,4世紀初頭にはローマ帝国へ,さらにはインド,中国にも伝わったが,のちイスラム教の迫害を受けて衰退し,13世紀にモンゴル帝国の侵入により消滅した。東西両世界を文化的宗教的に結びつけた功績は大きい。厳格な道徳律と簡明な教義および礼拝様式をもつ。教義は,光明すなわちと暗黒すなわちとの自然的二元論が根本をなしており,明暗の現実界を救う予言者としてマニが光明の神からつかわされたという。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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朝日新聞掲載「キーワード」

マニ教
ササン朝ペルシャ(225〜651)のバビロニアで生まれたマニが創始。3世紀以降、キリスト教やゾロアスター教、仏教などの諸要素を加え、広く普及したが、15〜16世紀に消滅。教義は光と、善と悪の二元的世界観に立ち、悪からの救済を重視する。
(2008-05-24 朝日新聞 朝刊 3社会)

出典:朝日新聞掲載「キーワード」

デジタル大辞泉

マニ‐きょう〔‐ケウ〕【マニ教】
Mani》3世紀にペルシアのマニが創唱した宗教。ゾロアスター教母体とし、キリスト教仏教の諸要素を取り入れて、光(善)と闇(やみ)(悪)の二元論的世界観を根本に、禁欲的実践による救済を説く。4世紀を最盛期として西アジアローマ帝国に広まり、6世紀以後はペルシア東部からチベット・中国()など東方に広まったが、13~14世紀に急速に衰えた。中国では摩尼祆教(まにけんきょう)とよばれた。
[補説]「摩尼教」とも書く。

出典:小学館
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世界大百科事典 第2版

マニきょう【マニ教 Manichaeism】
イラン人マニMani(216‐276∥277。正確にはマーニーMānī)によって3世紀に創始,唱導された二元論的宗教。当時のゾロアスター教を教義の母体として,これにキリスト教,メソポタミアグノーシス主義と伝統的土着信仰,さらには仏教までを摂取,融合した世界宗教である。その徹底した二元論的教義では,光と闇,善と悪,精神と物質とが截然と分かたれていた始源のコスモスへの復帰をとして,マニ教独自の救済教義が宇宙論的に展開される。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

マニ教
まにきょう
Manichaeism
マニが3世紀にイランで創始した普遍的宗教で、東西に広く伝播(でんぱ)し、歴史的な勢力となった。経典宗教としての特色をもち『シャブラーカーン』『いのちの書』『プラグマティア』『秘儀の書』『マニ書簡』などを経典とする。[加藤 武]

教義

フランスの東洋学者ペリオが中国で発見したマニ教断簡(パリ国立博物館所蔵)によると、その教義は、二宗すなわち光と闇(やみ)、善と悪の二つの原理の対立に基づいており、三際とよばれる三つの時期に区分される。初際、つまり第一の時期にはまだ天地は存在していず、ただ明暗の区別があるのみである。明の性質は知恵で、暗の性質は愚かであった。そしてまだ対立矛盾はおこっていない。中際、つまり中期に入ると、すでに暗(闇)が明(光)を侵し始めていた。明がやってきて暗に入り込み混合した。大いなる苦しみのために、人は目に見える形体の世界から逃れようと願った。「火宅」(この世界)を逃れるためには真(光)と偽(闇)を見分け、救われるための縁をとらえなければならない。後際、つまり第三の時期には教育と回心を終える。真(光)と偽(闇)はそれぞれもときた根(ね)の国に帰る。光は大いなる光に帰り、他方、闇は闇のかたまりに帰る。以上の内容は、『テオドレ・バル・コーニー』とよばれる8世紀のシリア語の叙述ともよく一致する。[加藤 武]

教団

マニは12人の教師、72人の司教、360人の長老からなる後継者を二つの群に分けた。一つはエレクトゥスelectus(選ばれた者)で、聖職者として五戒を守り厳しい修道を行った。いま一つはアウディトゥスauditus(聴問者)で、比較的緩やかな生活を許され、十戒を守った。ベーマbmaの祭りを、教団はマニの殉教を記念する日としてもっとも重んじた。[加藤 武]

伝播

マニ教は、キリスト教、ゾロアスター教、仏教、道教などを混合するとともに、キリスト教や仏教を名のることによって巧みに勢力を伸ばし、4世紀には西方で盛期を迎えたが、6世紀以後東方に向かい中国に達した。唐代の中国では摩尼(まに)教といわれ、則天武后(そくてんぶこう)は官寺大雲(だいうん)寺を建立している。[加藤 武]
『岡野昌雄訳『アウグスティヌス著作集7 マニ教駁論集』(1979・教文館)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

マニ‐きょう ‥ケウ【マニ教】
〘名〙 (マニはMani) 三世紀にマニ(二一五頃~二七六頃の人)がイランにおいて始めた宗教。ペルシア固有のゾロアスター教的二元論に、キリスト教・グノーシス主義・仏教を加えた混合宗教。四世紀には、ローマ・北アフリカの都市知識層に迎えられ、六~七世紀にはチベットから中国にまで達したが、しだいに道教に同化されていった。

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社世界史事典 三訂版

マニ教
マニきょう
Manichaeism
マニを開祖とする宗教
マニはササン朝の人で,3世紀半ばごろ,ゾロアスター教にキリスト教・仏教を融合させ,徹底した善悪二元論のこの宗教を創始した。シャープール1世のとき一時厚遇されたが,その後,ササン朝で禁止され,国外に流布した。西方は北アフリカ・南ヨーロッパ,東方はトルキスタン・中央アジア方面で流行し,唐代の中国でも信仰を集めた。またウイグルにおいて一時国教となったが,イスラームの普及とともに衰えた。

出典:旺文社世界史事典 三訂版
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