●マンチーニ
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
マンチーニ
Mancini, Pasquale Stanislao
[生]1817.3.17. カステルバロニア
[没]1888.12.26. ナポリ
イタリアの政治家,法学者。国際法の権威で,トリノ大学教授をつとめ,イタリア統一運動にも活躍した。 1876~78年法相,81~85年外相となり,82年のドイツ,オーストリアとの三国同盟調印の当事者となった。
[没]1888.12.26. ナポリ
イタリアの政治家,法学者。国際法の権威で,トリノ大学教授をつとめ,イタリア統一運動にも活躍した。 1876~78年法相,81~85年外相となり,82年のドイツ,オーストリアとの三国同盟調印の当事者となった。
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世界大百科事典 第2版
マンチーニ【Pasquale Stanislao Mancini】
1817‐88
イタリアの法律家,政治家。カステル・バローニア出身。ナポリ大学で法学博士を取得後,母校で研究・教育をはじめ,かたわら弁護士活動にも従事,1848年にはナポリで議席を得たが革命に加わりトリノへ亡命,トリノ大学が彼のため用意した国際法の教授職に就く。〈国際法の基礎としての民族性(nazionalità)〉と題したその開講の辞(1851)は内外に絶大な反響を呼んだ。当時イタリアの分割支配をうかがっていたオーストリア,フランスに対してはイタリアの民族nazioneとしての独立を尊重すべきこと,また弱小な国家Statoの分立状態であった半島内部に対しては国家を超えた共通の民族性による統一と統合を果たすべきことを説得力ある弁舌で訴えたからである。
イタリアの法律家,政治家。カステル・バローニア出身。ナポリ大学で法学博士を取得後,母校で研究・教育をはじめ,かたわら弁護士活動にも従事,1848年にはナポリで議席を得たが革命に加わりトリノへ亡命,トリノ大学が彼のため用意した国際法の教授職に就く。〈国際法の基礎としての民族性(nazionalità)〉と題したその開講の辞(1851)は内外に絶大な反響を呼んだ。当時イタリアの分割支配をうかがっていたオーストリア,フランスに対してはイタリアの民族nazioneとしての独立を尊重すべきこと,また弱小な国家Statoの分立状態であった半島内部に対しては国家を超えた共通の民族性による統一と統合を果たすべきことを説得力ある弁舌で訴えたからである。
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