●ムハンマド・アリー
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
ムハンマド・アリー
Muḥammad `Alī
[没]1849.8.2. アレクサンドリア
オスマン帝国のエジプト太守 (在位 1805~48) ,ムハンマド・アリー朝の始祖。トルコ風にメフメット・アリと発音される場合も多い。ナポレオン軍撤退後のエジプトでマムルーク勢力を追い落して次第に頭角を現し,1805年エジプト太守となった。 11年マムルークの勢力を壊滅させ,11~18年アラビア半島のワッハーブ派 (→ワッハーブ派運動 ) を鎮圧,20~21年にはスーダンを征服した。 24~27年ギリシアの独立戦争と戦うオスマン帝国に味方して活躍,クレタを与えられたが,満足せずシリアに出兵。その結果 40年ヨーロッパ諸国の介入を招きシリア,クレタは失ったが,エジプト太守の世襲が決り,ムハンマド・アリー朝が成立。彼はナイル川デルタの灌漑,土地制度,税制の改革などエジプトの政治,経済の近代化をはかった。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
ムハンマド・アリー
むはんまどありー
Muhammad ‘Alī
(1769―1849)
近代エジプト、ムハンマド・アリー朝の創立者(在位1805~48)。メフメット・アリーはトルコ語読み。マケドニア地方の都市カワーラに生まれる。アルバニア系といわれる。1801年ナポレオンのエジプト占領時に、アルバニア傭兵隊将校としてオスマン・トルコ帝国によりエジプトに派遣された。ナポレオン退却後の政局混乱に乗じ、1805年エジプト総督(ワーリー)に任命された。以後、旧支配階層マムルーク勢力を一掃し、近代的軍隊の創設、行政改革、検地、農作物の専売制度、近代工場の設立など、一連の富国強兵・殖産興業政策を実施した。これによって近代国家エジプトの基礎を築き、その国力を背景として、中部アラビア、スーダン、シリア方面などに領土拡張政策をとった。彼の一連の政策、とりわけシリアへの領土拡張政策は、いわゆる東方問題を引き起こし、ヨーロッパ列強の介入による1840年のロンドン四国条約の締結によって、スーダンを除く征服地の放棄と国内市場の開放を余儀なくされた。しかし、その代償として、彼の一族によるエジプト総督世襲が認められた。
[加藤 博]
『三木亘著『オスマン帝国のアラブ支配とその解体』(『岩波講座 世界歴史21 近代8』所収・1971・岩波書店)』▽『石田進著『帝国主義下のエジプト経済――19世紀エジプトの植民地化過程の分析』(1974・御茶の水書房)』▽『岩永博著『ムハンマド・アリー』(清水書院・清水新書)』
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