●メディチ家【メディチけ】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
メディチ家
メディチけ
Medici
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デジタル大辞泉
メディチ‐け【メディチ家】
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世界大百科事典 第2版
メディチけ【メディチ家】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
メディチ家
めでぃちけ
Medici
イタリア、フィレンツェの名家で、ルネサンスの学芸の保護者。この家系の名は13世紀後半の資料にもみられるが、メディチ銀行を創立し、後代の隆盛の基盤を築いたのはジョバンニ・ディ・ビッチGiovanni di Bicci de' Medici(1360ころ―1429)である。その子コジモCosimo de' M.(1389―1464)は、事業を拡張、ヨーロッパ各地に支店を出し、巨万の富を蓄えると同時に土地へ投資し、財政の安定を図った。政治的には表だつことを避け、財力と新興大商人層内での信望を武器に支持人脈網を確立し、フィレンツェ共和国内で隠然たる影響力を行使した。この寡頭体制が、後年への同家の安泰の後ろ盾であった。1433年に共和国より追放されたコジモが翌年早々に帰国できたのも、この布石ゆえである。ミラノ、ナポリとの友好関係を保つのが彼の一貫した外交方針で、共和国の安定と繁栄に大いに貢献し、死後「祖国の父」の称号を贈られた。
コジモの孫ロレンツォLorenzo de' M.(1449―1492)は、市民ながら若年より他国の君公とも対等に交わり、フィレンツェでも無冠の王のごとく君臨した。祖父の外交方針を継承し、イタリア半島の諸勢力の均衡に努めた。賢明かつ豪胆で、率直な性格と行動ゆえ「イル・マニフィコil Magnifico(偉大なる者)」とあだ名されたが、その資質は、1478年同家を危機に陥れたパッツィ家の陰謀への対処にも発揮された。また、コジモ同様、芸術を保護し、自らも文学作品を残している。しかしロレンツォは経営の才能に乏しく、当時すでにメディチ家の財政は揺らぎ始めていた。彼の長男ピエロPiero de' M.(1472―1503)は凡愚で、南下したフランスのシャルル8世に屈したため、共和国より追放された(1494)。1512年にメディチ家は帰国を許されたが、1527年にもまた追われている。ただし、この間同家は2人の教皇、レオ10世(在位1513~1521)およびクレメンス7世(在位1523~1534)を輩出、フランス王家と婚姻関係を結んだ(アンリ2世の妃カトリーヌ・ド・メディシス、アンリ4世の妃マリ・ド・メディシス)。
メディチ家のフィレンツェ再復帰がかなうのは1530年で、このときは皇帝カール5世と教皇軍の後押しによった。1532年、アレッサンドロAlessandro de' M.(1512―1537)がフィレンツェ公に叙せられ、メディチ家は名実ともに領主となった。
次代のコジモ1世Cosimo Ⅰ(1519―1574)は傍系の出身であったが、優れた政治家で、官僚の養成、統治機構の整備など公国の近代化に尽力し、1569年、トスカナ大公位についた。しかし彼以後の大公は、外交に優れた手腕を発揮して農業、商業の振興に努めたフェルディナンド1世Ferdinando Ⅰ(1549―1609)を除くと、おおむね凡庸で、コジモ2世Cosimo Ⅱ(1590―1621)はメディチ銀行を閉鎖した。相続人を残さなかった奇行の主ジャン・ガストーネGian Gastone de' M.(1671―1737)の死により、トスカナ大公=メディチ家は絶える。
[在里寛司]
『中田耕治著『メディチ家の人びと――ルネサンスの栄光と頽廃』『メディチ家の滅亡』(河出文庫)』▽『C・ヒッバート著、遠藤利国訳『メディチ家――その勃興と没落』(1984・リブロポート)』
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精選版 日本国語大辞典
メディチ‐け【メディチ家】
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旺文社世界史事典 三訂版
メディチ家
メディチけ
Medici
ジョバンニ(1360〜1429)のとき,市民階級の支持を集め,商業で得た巨利を背景に都市の政権を握った。その子コシモ(1389〜1464)のとき,銀行頭取とフィレンツェ共和国の国家元首の地位を得,孫のロレンツォ(1449〜92)は独裁的君主となり,内政・外交両面にわたってフィレンツェ市の繁栄をもたらし,文芸保護に力を注いだ。その次男がローマ教皇レオ10世。またローマ教皇クレメンス7世やフランス王アンリ2世の妃カトリーヌも一門の出身。その後,1737年の大公ガストーネの死去により廃絶した。
出典:旺文社世界史事典 三訂版
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