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ヤギェウォ朝【ヤギェウォちょう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

ヤギェウォ朝
ヤギェウォちょう
Jagiełłonowie
ヤギェロ朝,ヤゲロ朝とも呼ばれる。ポーランドリトアニア (リトワ) ,ボヘミアおよびハンガリーの王朝 (1386~1572) 。 15~16世紀における中央ヨーロッパ最大の勢力。ハンガリー王をも兼ねたポーランド王ルドウィク1世 (ハンガリー王としてはラヨシュ1世〈大王〉 ) を継承した女王ヤドウィガ (在位 1384~99) とリトアニア公ヤギェウォとの結婚 (86) により成立。ヤギェウォはポーランド王ウワディスワフ2世ヤギェウォ (在位 86~1434) となり,ポーランド=リトアニア両国の同君連合を確立するとともに,宿敵ドイツ騎士団をタンネンベルクに破った (10) 。王の没後,リトアニアは王のいとこジグムントが,ポーランドは息子ウワディスワフ3世 (在位 34~44) が治め,後者は 1440年ウラースロー1世としてハンガリー王も兼ねたが,44年対トルコ戦で戦死。すでに 40年ジグムントの跡を継いでいた弟カジミエシ4世ヤギェロンチクがポーランド王 (在位 47~92) となった。その勢力範囲はハンガリーとボヘミアを合せ,中・東欧にまたがる黄金時代を実現。『ニェシャワ法典』 (54) などでシュラフタ勢力の支配的地位が確立され,都市と農村社会の停滞をみたが,内政・外交面ですぐれた業績を残した。カジミエシの4人の子のうちウワディスワフはウラディスラフ2世ヤゲロウェツとしてボヘミア王 (在位 71~1516) ,ウラースロー2世としてハンガリー王 (在位 1490~1516) を兼ね,ヤン1世はポーランド王 (在位 1492~1501) ,アレクサンデルもその跡を継いでポーランド王 (在位 01~06) ,さらにジグムント1世 (老王)もポーランド王 (在位 06~48) となった。ジグムント1世はモスクワ大公国軍をオルシャに破り (14) ,ドイツ騎士団を圧迫して,衰退しかけたポーランドを再建した。しかしウラディスラフ2世ヤゲロウェツの子でハンガリー王ラヨシュ2世 (ボヘミア王としてルドビーク1世) がトルコに破れて戦死 (26) したため,王朝はボヘミアとハンガリーを失い,ジグムント1世の子でポーランド王ジグムント2世アウグスト (在位 48~72) はリボニアを押え,リトアニア連合の強化をはかったが,子なく,彼の死とともに王朝は断絶した。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)

ヤギェウォ朝
やぎぇうぉちょう
Jagiellonowieポーランド語
ポーランドの王朝(1386~1572)。ヤゲロ朝ともいう。リトアニア大公ヤギェウォJagieo(1348―1434。在位リトアニア大公1377~92、ポーランド王1386~1434)が、1385年ポーランドと同盟を結び、翌年ポーランド女王ヤドビガと結婚して、ポーランド王ウワディスワフ2世となったことによって始まる。この王朝のもとで、ポーランドのシュラフタ(特権的身分)階級はしだいに諸特権を獲得し、その地位を向上させた。16世紀にはルネサンス文化が開花し、「黄金の世紀」とよばれた繁栄の時代を迎え、ポーランドの国際的地位も上昇した。またヤギェウォ朝は、ハンガリー王位(1440~44、1490~1526)とチェコ王位(1471~1526)にもつき、ヨーロッパの国際政治において重要な役割を果たした。[安部一郎]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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