●ユグノー戦争【ユグノーせんそう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
ユグノー戦争
ユグノーせんそう
Wars of Religion; Guerres de Religion
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デジタル大辞泉
ユグノー‐せんそう〔‐センサウ〕【ユグノー戦争】
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世界大百科事典 第2版
ユグノーせんそう【ユグノー戦争】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
ユグノー戦争
ゆぐのーせんそう
1562~98年、フランスに起こった宗教戦争。ユグノーHuguenotは、旧教徒のカトリックによるカルバン派新教徒の蔑称(べっしょう)。宗教改革はフランスでも16世紀前半から広く起こり、カルバンの『キリスト教綱要』の出版(1536)後、新教徒はカルバン派を中心にカトリックとはっきりたもとを分かち、激しさを増す弾圧にもかかわらず、強力な組織力をもって王国に深く浸透した。新旧両派の対立は、おりからの名門貴族間の権力抗争に取り込まれる。バロア王家は名門貴族間の微妙なバランスのうえに君臨していたが、1559年フランソア2世の外戚(がいせき)であるギーズ家が勢力を拡大すると、その均衡は崩れた。ギーズ家一党が熱狂的な旧教徒であったことから、これに対抗して反ギーズ派の貴族たちが新教徒と手を結び、ここに新旧両派の信仰上の対立は一挙に政治的対立を帯びることになった。60年シャルル9世の即位とともに摂政(せっしょう)となった王母カトリーヌ・ド・メディシスは両派の均衡のうえにたって寛容政策を進めたが、両派の対立は激しくなるばかりで、ついに62年ギーズ公一隊による新教徒殺害(バシーの虐殺)を契機に、以後98年まで八次に及ぶユグノー戦争が始まることとなった。戦いと和議が繰り返されるなかにあって、1572年両派の和解のために画策された新教徒の総帥アンリ・ド・ナバル(後のアンリ4世)と、王妹マルグリットとの結婚式は、旧教派による新教徒殺戮(さつりく)に利用され、両派の対立は頂点に達した(サン・バルテルミーの虐殺)。この虐殺は地方にも広がり、新教徒およそ8000人が殺されたが、新教徒は暴君放伐論を唱えて抵抗運動を緩めなかった。その後、旧教派は、過激派と穏健派とに分裂し、前者は76年ギーズ一党を中心に旧教同盟(リーグ)を結成した。後者は信仰上の対立よりも王国の統一を重視してポリティーク派とよばれ、その代表的思想家にジャン・ボーダンがいた。このような状況のなかにあって、カトリーヌを中心とする王家に新旧両派を加えた三勢力の争いは、85年に始まるいわゆる「三アンリの戦い」となって現れた。この過程でアンリ・ド・ギーズ、ついでアンリ3世が暗殺され、89年アンリ・ド・ナバルがアンリ4世として即位した。ブルボン家新王は、国内の分裂および外国とくにスペインと教皇庁の干渉に直面して、93年カトリックへ改宗した。これはポリティーク派の支持を得、翌年2月にはパリ入城を果たし、98年「ナントの王令」を公布して信仰の自由を保障し、ここに内乱は終わりを告げた。ユグノー戦争は、新旧両派の信仰上の武力抗争という形をとりながらすぐれて政治的な抗争でもあり、新興ブルジョア層の台頭や新旧両派をおのおの支援する外国の思惑もあって複雑な様相を呈した。この戦争の結果弱体化した王権の回復を求めて、アンリ4世は絶対王政確立のための再建に着手することになる。
[志垣嘉夫]
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精選版 日本国語大辞典
ユグノー‐せんそう ‥センサウ【ユグノー戦争】
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旺文社世界史事典 三訂版
ユグノー戦争
ユグノーせんそう
旧教徒のギーズ公によるユグノー殺害が発端。フランソワ2世と母后カトリーヌ=ド=メディシスが,ギーズ公と結んでユグノーを圧迫したため,両派の対立が激化して内乱に発展し,1572年にサン−バルテルミの虐殺事件が起こり,スペインが旧教徒を,イギリス・オランダが新教徒を援助した。やがてアンリ3世,ギーズ公アンリ,ナヴァル王アンリの三つ巴の争いとなりギーズ公アンリを倒したアンリ3世が暗殺されたのち,ナヴァル王アンリがアンリ4世として王位についてブルボン朝を開き,ナントの勅令を発布して抗争は終結した。
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