●ラーシュトラクータ朝【ラーシュトラクータちょう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
ラーシュトラクータ朝
ラーシュトラクータちょう
Rāṣṭrakūta
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世界大百科事典 第2版
ラーシュトラクータちょう【ラーシュトラクータ朝 Raṣṭrakūṭa】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
ラーシュトラクータ朝
らーしゅとらくーたちょう
Rāstrakūta
インドのデカンで8世紀中ごろから10世紀後半まで統治した王朝。バーダーミに都したチャールキヤ朝にかわって、753年ごろチャールキヤ朝の部将ダンティドゥルガが王位を獲得し、ハイデラバードの近くのマンヘードに都して、デカンを統治した。第2代クリシュナ(在位756~773)は王国の体制を固め、マイソールやアーンドラにも勢力を伸ばし、エローラにカイラーサナータ寺院を建立。当時ガンジス中流域にはプラティーハーラ朝、同下流域にはパーラ朝、デカン半島南部にはパッラバ朝という強大な王国があって、この王朝はこれらとの間に戦争を繰り返した。とりわけ、ドゥルバとゴービンダ3世は北インドに大遠征を行い、プラティーハーラ朝の都カンノージ(カナウジ)を占領したことがあった。だが占領した遠方の地を長年にわたって支配することはなかった。9世紀後半からこの王朝はしだいに衰え、東からチャールキヤ朝、南からチョーラ朝に攻められ、973年、勢力下にあったチャールキヤ家のタイラによって滅ぼされた。
[山崎利男]
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旺文社世界史事典 三訂版
ラーシュトラクータ朝
ラーシュトラクータちょう
Rāshtrakūta
チャールキヤ朝を倒して753年に創始され,諸王国の弱体化に乗じて勢力を伸ばし,8世紀末から9世紀後半に全盛期を現出して一大王国となった。寛容な宗教政策がとられ,ヒンドゥー教のほかジャイナ教を保護。また,イスラームの布教を認めたため,海岸都市にはムスリム商人が来航し,外国貿易が発展して王国を豊かにした。しかし,封臣の地位に陥っていたチャールキヤ家が勢力を盛り返し,973年王国は滅ぼされた。
出典:旺文社世界史事典 三訂版
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