●七年戦争【しちねんせんそう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
七年戦争
しちねんせんそう
Seven Years' War
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デジタル大辞泉
しちねん‐せんそう〔‐センサウ〕【七年戦争】
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世界大百科事典 第2版
しちねんせんそう【七年戦争 Seven Years’ War】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
七年戦争
しちねんせんそう
Seven Years' War 英語
Siebenjähriger Krieg ドイツ語
1756~63年にオーストリアとプロイセンとの間に行われた戦争。1755年北アメリカで始まっていたフレンチ・アンド・インディアン戦争(1755~63。英仏植民地戦争、第二次百年戦争ともいう)の展開のなかでオーストリア女帝マリア・テレジアは、オーストリア継承戦争(1740~48)の結果プロイセンに奪われたシュレージエンSchlesien(ドイツ、ポーランド名ではシロンスクŚląsk)の奪回のためにプロイセンの国際的孤立を図り、ロシアとの同盟に加えて、200年来、伝統的に敵対していたフランスとの同盟という「外交革命」に56年5月成功する。これより先、同年1月、対抗してプロイセンのフリードリヒ2世は、ハノーバー選帝侯と同君連合にあったジョージ2世のイギリスとウェストミンスター協定を結んでいたが、8月ザクセンに侵入(予防戦争)、機先を制して戦端を開いた。この事態を利用してマリア・テレジアはドイツ諸侯の大多数をも味方につけ、フリードリヒがベーメン(ボヘミア)に進出しプラハを占領しようとしたのに対して反撃に転じ、57年6月にはコリンの戦闘で勝利を収めた。フリードリヒは、その後守勢にたち、57年ロスバハ(11月)、ロイテン(12月)での戦いに大勝したにもかかわらず、ロシアの進出に直面して59年8月クネルスドルフで惨敗し、60年10月ロシア軍にベルリンを一時占領された。加えてイギリスではジョージ2世が同年10月没してジョージ3世にかわり、61年ピット(大)も辞職し、プロイセンへの援助金が打ち切られ、フリードリヒは苦境にたたされる。しかしオーストリア、ロシア両国の戦略上の違いに乗じて各地で連勝し、ロシア女帝エリザベタの死去で62年1月ピョートル3世が即位し、オーストリア・ロシア同盟が解体したため、ロシアと同盟を締結して苦境を脱した。英仏間にも和約が成立すると、63年2月オーストリア、プロイセンはフベルトゥスブルクHubertusburgで和を結ぶに至った。
プロイセンは、重要な鉱工業地帯であるシュレージエンの領有を確定し、ドイツ近代化の主導権を握り、その資本主義、帝国主義への発展を可能にした。国際的にはフランスに対するイギリスの勝利となり、産業革命期の大英帝国の基礎をつくりあげることになった。
[進藤牧郎]
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精選版 日本国語大辞典
しちねん‐せんそう ‥センサウ【七年戦争】
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旺文社世界史事典 三訂版
七年戦争
しちねんせんそう
Seven Years' War
オーストリアとプロイセン間に行われた戦争
フランス・ロシア・スウェーデン・ザクセンなどがオーストリアに,イギリスがプロイセンに味方した。同時にイギリス・フランスはインド・北アメリカで戦った。オーストリア継承戦争の結果,シュレジエン(シレジア)をプロイセンのフリードリヒ2世に奪われたオーストリア−ハプスブルク家のマリア=テレジアが,その回復をはかるためにしかけた戦争。オーストリアは200年来つねに対立していたフランスのブルボン朝に接近し(外交革命),いっぽうインド・北アメリカでフランスと植民地抗争を続けてきたイギリスは,プロイセンと同盟した。そこで,オーストリアとフランスの間に攻守同盟が成立し,プロイセンの台頭を喜ばないロシアもオーストリアと同盟して,複雑な国際戦争となった。1763年のフベルトゥスブルク条約でプロイセンがシュレジエンを確保。またこの戦争と並行して行われた北米植民地でのフレンチ−インディアン戦争,インドのカーナティック戦争・プラッシーの戦いでフランスに勝ったイギリスは植民地帝国として圧倒的優位を確定した。
出典:旺文社世界史事典 三訂版
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