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七年戦争【しちねんせんそう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

七年戦争
しちねんせんそう
Seven Years' War
1756年8月から 63年2月までの7年間,プロシアオーストリア間に戦われた戦争。この戦争に関連して同期間に北アメリカ,インドの両植民地イギリスとフランスの戦争 (→フレンチ・アンド・インディアン戦争 ) も行われた。オーストリア継承戦争に敗北したオーストリアのマリア・テレジアは,シュレジエンの回復を目指してザクセンなどドイツ諸邦やロシアと防御同盟を結ぶほか,16世紀以来の宿敵フランスと防御同盟を結んだ (1756.5.) 。一方,フランスとの植民地争奪戦を激化させていたイギリスは,56年1月プロシアと防御同盟を結んだ。8月プロシア王フリードリヒ2世 (大王)は機先を制してザクセンに侵入,七年戦争の戦端を開いた。プロシアは包囲攻撃にあって一時は国家瓦解の危機に瀕したが,オーストリアと結んだ連合国の間の利害が必ずしも一致せず,62年ロシアにピョートル3世が即位すると,ロシアはプロシアと講和を結んで戦線を離れ,植民地でイギリスに敗れたフランスも,63年2月 10日パリ条約を結び,北アメリカにおける領土を失った。イギリスは海外市場および植民地の争奪戦で優位に立ち,世界帝国としてほとんど絶頂に達した。フランスがドイツから撤兵したため,オーストリアも同年2月 15日フベルトゥスブルクの和約を締結,オーストリアはマリア・テレジアの息子ヨーゼフ (のちの2世) を父帝フランツ1世の死後,神聖ローマ皇帝として認めるという約束だけを得,プロシアのシュレジエン領有を確認して戦争は終った。この戦争の結果,プロシアはヨーロッパの列強と認められることとなる。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉

しちねん‐せんそう〔‐センサウ〕【七年戦争】
1756年から1763年までの7年間、シュレジエンの領有をめぐって行われたオーストリアとプロイセンとの戦争。また、これに関連したフランス対イギリス、ロシア対プロイセンの戦争。結局、プロイセンはシュレジエンを確保し、フランスはカナダ・インドの植民地を失った。

出典:小学館
監修:松村明
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世界大百科事典 第2版

しちねんせんそう【七年戦争 Seven Years’ War】
シュレジエン戦争(1740‐42,44‐45)でプロイセンに敗れたオーストリアのマリア・テレジアと,プロイセン王フリードリヒ2世との間で行われた戦争(1756‐63)。世界史的に見れば,海外植民地をめぐる英仏両大国の権力闘争一環をなしている。 オーストリアは,シュレジエン奪回をめざす報復戦争にそなえて,カウニッツWenzel Anton Kaunitz(1711‐94)の外交努力により,16世紀いらい敵対関係にあったフランスとの同盟に成功し,さらにロシアの支援をも獲得した。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

七年戦争
しちねんせんそう
Seven Years' War 英語
Siebenjähriger Krieg ドイツ語

1756~63年にオーストリアとプロイセンとの間に行われた戦争。1755年北アメリカで始まっていたフレンチ・アンド・インディアン戦争(1755~63。英仏植民地戦争、第二次百年戦争ともいう)の展開のなかでオーストリア女帝マリア・テレジアは、オーストリア継承戦争(1740~48)の結果プロイセンに奪われたシュレージエンSchlesien(ドイツ、ポーランド名ではシロンスクŚląsk)の奪回のためにプロイセンの国際的孤立を図り、ロシアとの同盟に加えて、200年来、伝統的に敵対していたフランスとの同盟という「外交革命」に56年5月成功する。これより先、同年1月、対抗してプロイセンのフリードリヒ2世は、ハノーバー選帝侯と同君連合にあったジョージ2世のイギリスとウェストミンスター協定を結んでいたが、8月ザクセンに侵入(予防戦争)、機先を制して戦端を開いた。この事態を利用してマリア・テレジアはドイツ諸侯の大多数をも味方につけ、フリードリヒがベーメン(ボヘミア)に進出しプラハを占領しようとしたのに対して反撃に転じ、57年6月にはコリンの戦闘で勝利を収めた。フリードリヒは、その後守勢にたち、57年ロスバハ(11月)、ロイテン(12月)での戦いに大勝したにもかかわらず、ロシアの進出に直面して59年8月クネルスドルフで惨敗し、60年10月ロシア軍にベルリンを一時占領された。加えてイギリスではジョージ2世が同年10月没してジョージ3世にかわり、61年ピット(大)も辞職し、プロイセンへの援助金が打ち切られ、フリードリヒは苦境にたたされる。しかしオーストリア、ロシア両国の戦略上の違いに乗じて各地で連勝し、ロシア女帝エリザベタの死去で62年1月ピョートル3世が即位し、オーストリア・ロシア同盟が解体したため、ロシアと同盟を締結して苦境を脱した。英仏間にも和約が成立すると、63年2月オーストリア、プロイセンはフベルトゥスブルクHubertusburgで和を結ぶに至った。

 プロイセンは、重要な鉱工業地帯であるシュレージエンの領有を確定し、ドイツ近代化の主導権を握り、その資本主義、帝国主義への発展を可能にした。国際的にはフランスに対するイギリスの勝利となり、産業革命期の大英帝国の基礎をつくりあげることになった。

[進藤牧郎]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

しちねん‐せんそう ‥センサウ【七年戦争】
一七五六年から六三年まで戦われたシュレジエン(シロンスク)の領有をめぐるプロイセンとオーストリアの戦争、およびこれと関連して戦われた、主としてイギリス、フランスの植民地争奪戦争。プロイセンはシュレジエン領有を確認され、イギリスはカナダ、北米、インドなどでフランスの植民地を奪った。

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社世界史事典 三訂版

七年戦争
しちねんせんそう
Seven Years' War
1756〜63
オーストリアとプロイセン間に行われた戦争
フランス・ロシア・スウェーデン・ザクセンなどがオーストリアに,イギリスがプロイセンに味方した。同時にイギリス・フランスはインド・北アメリカで戦った。オーストリア継承戦争の結果,シュレジエン(シレジア)をプロイセンのフリードリヒ2世に奪われたオーストリア−ハプスブルク家のマリア=テレジアが,その回復をはかるためにしかけた戦争。オーストリアは200年来つねに対立していたフランスのブルボン朝に接近し(外交革命),いっぽうインド・北アメリカでフランスと植民地抗争を続けてきたイギリスは,プロイセンと同盟した。そこで,オーストリアとフランスの間に攻守同盟が成立し,プロイセンの台頭を喜ばないロシアもオーストリアと同盟して,複雑な国際戦争となった。1763年のフベルトゥスブルク条約でプロイセンがシュレジエンを確保。またこの戦争と並行して行われた北米植民地でのフレンチ−インディアン戦争,インドのカーナティック戦争プラッシーの戦いでフランスに勝ったイギリスは植民地帝国として圧倒的優位を確定した。

出典:旺文社世界史事典 三訂版
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