●三十年戦争【さんじゅうねんせんそう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
三十年戦争
さんじゅうねんせんそう
Thirty Years' War
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デジタル大辞泉
さんじゅうねん‐せんそう〔サンジフネンセンサウ〕【三十年戦争】
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とっさの日本語便利帳
三十年戦争
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世界大百科事典 第2版
さんじゅうねんせんそう【三十年戦争】
[発端]
ドイツでは1555年のアウクスブルクの宗教和議後まもなく新教派(プロテスタント)と旧教派(カトリック)の対立が再燃し,1608年新教派諸侯が新教連合(ウニオン)を,翌年には旧教派諸侯が旧教連盟(リガ)を結成して対抗していたが,戦争の直接の発火点となったのはボヘミアであった。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
三十年戦争
さんじゅうねんせんそう
Dreißigjähriger Krieg ドイツ語
Thirty Years' War 英語
Guerre de trente ans フランス語
1618~1648年の間、ドイツを舞台として戦われた戦争。最後で最大の宗教戦争といわれる。
[中村賢二郎]
発端
ドイツでは、アウクスブルクの和議後まもなく新旧両派の対立が再燃し、17世紀に入ってからは一触即発の状況になっていたが、戦乱はまずボヘミア(ベーメン)で勃発(ぼっぱつ)した。ボヘミアでは、1609年、貴族たちが神聖ローマ皇帝ルードルフ2世から信仰の自由の承認を獲得していたが、1617年フェルディナント(後の皇帝フェルディナント2世)がボヘミア王位につくと、新教派を圧迫して、貴族たちの反乱を引き起こした。
[中村賢二郎]
経過
戦争の経過は、皇帝派の対戦国に応じて次の4段階に分けられる。
(1)ボヘミア・プファルツ戦争(1618~1623) 内乱の渦中の1619年に、フェルディナントが皇帝に即位すると、ボヘミア議会はフェルディナントの王位を取り消し、新教派のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を国王に選んだ。そのため、戦争のドイツ全体への波及は不可避の形勢となったが、フリードリヒがカルバン派であったために、わずかの新教派諸侯の協力しか得られず、他方皇帝は、旧教派諸侯の指導者バイエルン公マクシミリアンの協力とスペインの援助を得て反攻に出、1620年フリードリヒの軍をプラハ西方のワイサーベルクに破った。続いて皇帝は、反乱に加担した新教派諸侯軍を各地に破り、スペイン軍もプファルツ領に侵入した。
(2)デンマーク戦争(1625~1629) デンマーク王クリスティアン4世は、この機会に乗じ、イギリス、オランダの援助を取り付けて、1625年北ドイツに侵入した。苦境に陥った皇帝は、ワレンシュタインを皇帝軍総司令官に任命し、ワレンシュタインはバイエルンの司令官ティリと協力してクリスティアンを破り、1629年リューベックの和約を結ばせた。同年皇帝は、回復勅令を発布して新教派に圧迫を加えたが、この法令は、それまで中立を維持していた新教派諸侯を反皇帝派の側にたたせることになり、また皇帝勢力の強大化を恐れた旧教派諸侯も、皇帝に迫って、1630年ワレンシュタインを罷免させた。
(3)スウェーデン戦争(1630~1635) バルト海域での勢力の拡張を図っていたスウェーデン王グスタフ・アドルフは、皇帝勢力の北進に脅威を感じ、フランスの援助を得たうえで1630年ポンメルンに上陸し、1631年ティリの軍をブライテンフェルトに大敗させ、ボヘミアにまで進出した。皇帝はワレンシュタインを再度、皇帝軍総司令官に起用した。ワレンシュタインは1632年リュッツェンLützenの戦いでグスタフを戦死させたが、戦いには敗れた。皇帝は和平策謀を理由に1634年ワレンシュタインを暗殺し、スペインの援助を受けて新教派軍を破り、1635年新教派諸侯の多くにプラハの和約を結ばせた。
(4)フランス・スウェーデン戦争(1635~1648) フランスは、三十年戦争の開始以来、つねに反ハプスブルクの黒幕的存在として新教派に援助を与えていたが、新教派が劣勢となると、いまや公然と戦争の表舞台に登場し、軍をドイツに入れた。その後、戦況は一進一退を続けたが、長年の戦争に倦(う)み疲れた皇帝、ドイツ諸侯、スウェーデンの間に和平の気運がみえ、1645年以後和平交渉が行われて、1648年ウェストファリア条約が成立した。
[中村賢二郎]
結果
三十年戦争が国際的戦争となってから対抗関係の主軸をなしていたのは、オーストリア、スペインの両ハプスブルク家とフランスのブルボン家であったが、この戦争によって最大の打撃を被ったのは東西のハプスブルク家であった。ウェストファリア条約によってオランダとスイスの独立が正式に承認され、ドイツ国内では諸侯の独立性が強化されて、神聖ローマ皇帝の地位はいよいよ名目的存在となった。この両ハプスブルク家の衰運にひきかえ、ライン川左岸に領土を得たフランスは大陸での最強国となり、ドイツのバルト海沿岸に領土を獲得したスウェーデンも、北ヨーロッパの強国となることができた。
[中村賢二郎]
『中村賢二郎著「三十年戦争」(『世界の戦史5』所収・1966・人物往来社)』
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精選版 日本国語大辞典
さんじゅうねん‐せんそう サンジフセンサウ【三十年戦争】
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旺文社世界史事典 三訂版
三十年戦争
さんじゅうねんせんそう
Dreißigjähriger Krieg
アウグスブルクの宗教和議(1555)の後も,ドイツの宗教対立は続いていた。ベーメン(ボヘミア)のプロテスタントに対する皇帝フェルディナント2世の弾圧を契機に,ドイツおよびヨーロッパ各国の政治的利害関係と結びついて,オーストリア・スペインとフランスとの対立抗争に発展した。デンマーク・スウェーデン・フランスがプロテスタント側に,スペインがカトリック側に味方した。戦争の経過は,(1)ベーメン−ファルツ戦争(1618〜23),(2)デンマーク戦争(1625〜29),(3)スウェーデン戦争(1630〜35),(4)フランス−スウェーデン戦争(1635〜48)の4段階に分けられる。この戦争で最大の打撃を受けたのは東西のハプスブルク家であった。ドイツは戦争で荒廃して人口の3分の1を失い,1648年のウェストファリア条約でオランダとスイスの独立が認められ,ドイツ諸邦はほとんど完全な独立国家となった。逆にフランスはライン川左岸に領土を得て強国となり,スウェーデンも北ヨーロッパで強盛をほこった。
出典:旺文社世界史事典 三訂版
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