●三藩の乱【さんぱんのらん】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
三藩の乱
さんぱんのらん
San-fan
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デジタル大辞泉
さんぱん‐の‐らん【三藩の乱】
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世界大百科事典 第2版
さんぱんのらん【三藩の乱】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
三藩の乱
さんぱんのらん
中国、清(しん)朝の1673~81年の、漢人将軍の反乱。三藩とは雲南の呉三桂(ごさんけい)、広東(カントン)の尚之信(しょうししん)、福建の耿精忠(こうせいちゅう)をいう。満州人政権である清朝は、中国支配にあたって多くの投降漢人を使用したが、その多くが「八旗漢軍」に編入された。しかし、呉三桂、尚可喜(かき)(之信の父)、耿仲明(ちゅうめい)(精忠の祖父)の3人は、それぞれ配下に多くの将兵をもち、中国平定戦争に大功があったため、平定後もその軍団は解体されずに、三桂は雲南に平西王、可喜が広東に平南王、継茂(けいも)(仲明の子)が福建に靖南(せいなん)王として封ぜられ、それぞれ藩府を開き、軍事、財政権を有して、やがて中央政府の意向を無視する独立政権的存在となった。このような三藩の存在は、中国全土を支配下に収めたのちの清朝の容認しうるものではなく、1673年の尚可喜の遼東(りょうとう)への引退願いに端を発して、清朝は三藩の撤藩を命じた。このため三桂が挙兵し、74年に精忠が呼応、76年には之信が三桂に投降した。各地の反清勢力も加わって、一時は揚子江(ようすこう)以南が三藩の支配下となった。しかし、三藩の間に統一した動きはなく、77年ごろから清軍の攻勢が続き、78年8月に湖南で三桂が没し、後継者の呉世璠(せいはん)も81年に自殺し鎮圧された。この乱の鎮圧以後に清の中国支配が確立したといえる。
[細谷良夫]
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旺文社世界史事典 三訂版
三藩の乱
さんぱんのらん
三藩とは雲南の平西王呉三桂,広東の平南王尚可喜 (しようかき) と子の尚之信 (しようししん) ,福建の靖南王耿継茂 (こうけいも) と子の耿精忠をさす。彼らは明から降伏した漢人武将で,清の統一に活躍,それぞれ王に封じられて直属軍団をもち,軍閥化した。1673年尚可喜の辞意表明をうけた康熙 (こうき) 帝の平南廃藩令に対し,まず呉三桂が明朝回復を旗印にして反乱を起こした。これに他の2王や漢人武将も加わって,西南部10省に及ぶ大乱となり,台湾の鄭経 (ていけい) (鄭成功の子)もこれを援助した。やがて呉三桂はみずから帝位についたが,彼が病死(1678)すると,1681年清は乱を鎮圧して中国支配を確立した。
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