●上杉憲実【うえすぎのりざね】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
上杉憲実
うえすぎのりざね
[没]文正1(1466).閏2. 長門
室町時代の武将。越後上杉房方の3男。幼名は孔雀丸,のち四郎。号は高岩長棟雲洞庵主。山内上杉憲基の養子となって山内上杉家を継ぎ,安房守を称する。応永 26 (1419) 年関東管領として足利持氏の執事となり,上野,伊豆,越後を領した。永享8 (36) 年持氏が信濃守護小笠原政康を討とうとしたが,これを諫止したことや,さらに同 10年持氏の嫡子賢王丸の元服問題で対立するなど,持氏との関係が悪化して上野国に帰った。持氏は憲実追討の兵を起したが,持氏討伐を企てた将軍足利義教に攻められ,永享の乱となった。憲実も京軍に加わり武蔵分倍河原に出陣。同 11年持氏敗死ののち,一時関東の政務をとったが,家督を弟清方に譲り,宝徳1 (49) 年伊豆の国清寺で出家,諸国行脚の旅に出た。のち大内氏を頼り,長門大寧寺に住んだ。また鎌倉在住の頃,所領下野の足利学校を再興し,書籍を集め学徒を養成している。
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デジタル大辞泉
うえすぎ‐のりざね〔うへすぎ‐〕【上杉憲実】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
上杉憲実 うえすぎ-のりざね
応永17年生まれ。父は越後(えちご)守護上杉房方。山内上杉憲基の養子となり,応永26年関東管領をつぐ。将軍足利義教と鎌倉公方(くぼう)足利持氏との融和をはかる。やがて公方と対立。永享10年幕府連合軍と持氏をほろぼす(永享の乱)。のち出家し諸国をめぐり,長門(ながと)(山口県)大寧寺で文正(ぶんしょう)元年閏(うるう)2月6日没した。57歳。下野(しもつけ)(栃木県)の足利学校を再興したことで知られる。法号は高巌長棟。
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世界大百科事典 第2版
うえすぎのりざね【上杉憲実】
室町前期の武将。越後上杉房方の子。山内上杉憲基の養子となる。1419年(応永26)憲基の跡を受けて関東管領となった。上杉禅秀の乱以後,鎌倉公方(くぼう)足利持氏が幕府からの自立と公方権力の専制化をはかったのに対して,憲実は幕府との協調と妥協を主張したので,両者の間でしばし対立が生じた。とくに36年(永享8)持氏が信濃の内紛に介入しようとしたことに憲実が反対したこと,また38年持氏が慣例を無視して子義久の元服式を鶴岡八幡宮で強行したことなどで,両者の対立は深まった。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
上杉憲実
うえすぎのりざね
(1410―1466)
室町中期の武将。関東管領(かんれい)。越後(えちご)守護上杉房方(ふさかた)の子。山内上杉憲基(やまのうちうえすぎのりもと)の養子となる。1419年(応永26)伊豆、上野(こうずけ)守護に補任(ぶにん)され、関東管領に就任した。4代将軍足利義持(あしかがよしもち)の死(1428)後、次期将軍を期待していた関東公方(くぼう)足利持氏(もちうじ)が、将軍の後継者となった義教(よしのり)を攻めんとしたとき、憲実はこれを諫止(かんし)した。以後幕府に反抗し続ける持氏をつねに諫(いさ)め、やがて持氏と憲実の間は不穏なものとなった。38年(永享10)持氏による憲実討伐の風聞に、憲実は領国上野へ出奔、幕府の命を受けて翌年持氏を自殺させた。やがて出家し(永享(えいきょう)12年3月以前)伊豆国清寺に籠居(ろうきょ)したが、幕命により俗界に復帰し、一時関東の政務をみた。その後鎌倉を去り諸国行脚(あんぎゃ)ののち、長門(ながと)(山口県)大寧寺(たいねいじ)で文正(ぶんしょう)元年閏(うるう)2月に没した。下野(しもつけ)(栃木県)の足利学校を再興している。
[田辺久子]
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精選版 日本国語大辞典
うえすぎ‐のりざね【上杉憲実】
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旺文社日本史事典 三訂版
上杉憲実
うえすぎのりざね
室町中期の武将。関東管領
1438年,鎌倉公方足利持氏と不和になり上野 (こうずけ) (群馬県)に退去。持氏はこれを討とうとしたが,将軍足利義教 (よしのり) が憲実を応援したため,'39年持氏は敗れて自殺した(永享の乱)。'49年出家引退し,晩年は大内氏を頼って周防 (すおう) に住んだ。好学の人で,下野 (しもつけ) (栃木県)の足利学校を再興したことで有名。
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