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上杉氏【うえすぎうじ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

上杉氏
うえすぎうじ
藤原良門の子孫 (勧修寺流) 。重房のとき,鎌倉将軍宗尊親王の関東下向に奉して武家となり,丹波国何鹿郡上杉荘を領して上杉を称した。重房の孫清子が足利貞氏に嫁し尊氏,直義を産み,以後足利氏に重用された。のち扇谷,詫間,犬懸,山内の4家に分れ,正平 18=貞治2 (1363) 年憲顕が足利基氏の執事として関東管領に補任されたのち交互に関東管領となった。室町時代末期には山内,扇谷が対立したが,天文 15 (1546) 年,山内憲政と扇谷朝定が連合して北条氏康と戦ったが敗れ,憲政は越後守護代長尾景虎 (→上杉謙信 ) に関東管領職と上杉姓を譲った。謙信の養子景勝は豊臣秀吉徳川家康に仕え,子孫は出羽米沢藩主となり,明治にいたって伯爵

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世界大百科事典 第2版

うえすぎうじ【上杉氏】
中近世の武家。勧修寺(かじゆうじ)流藤原氏の出自で,鎌倉時代に重房が丹波国何鹿郡上杉荘を領して以後上杉氏を称した。重房は1252年(建長4)宗尊親王の東下に従い,鎌倉に住した。足利氏との婚姻関係が生じ,とくに重房の孫清子が足利貞氏に嫁して尊氏・直義を生んだことから,一族は高(こう)氏と並ぶ重臣として遇された。南北朝内乱の初期には,上杉憲顕が足利直義信任を得て幕府の関東支配の基礎をきずいた。観応の擾乱(じようらん)後の1363年(正平18∥貞治2)に憲顕がふたたび関東管領に就任して以降,上杉氏の一族が代々関東管領を世襲した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

上杉氏
うえすぎうじ
鎌倉~江戸時代の武家。勧修寺流(かじゅうじりゅう)藤原氏。勧修寺高藤(たかふじ)13代の庶流重房(しげふさ)が丹波国(たんばのくに)何鹿(いかるが)郡上杉荘(うえすぎのしょう)(京都府綾部(あやべ)市)を与えられて以来、上杉氏を称する。重房は1252年(建長4)宗尊(むねたか)親王が鎌倉幕府6代将軍として下向するのに従い鎌倉に定住、その後関東の名族足利(あしかが)氏と婚姻を結び、しだいに発展していった。重房の子頼重(よりしげ)の長男重顕(しげあき)は扇谷(おうぎがやつ)家を開き、頼重の三男で家督を継いだ憲房(のりふさ)の子の代に至り、養子重能(しげよし)が詫間(たくま)家、次男憲藤(のりふじ)が犬懸(いぬかけ)家を開き、長男憲顕(のりあき)は山内(やまのうち)を称して4家となった。頼重の娘清子(きよこ)が足利貞氏(さだうじ)に嫁して尊氏(たかうじ)、直義(ただよし)を生んだことから足利氏に重用され、重顕の子朝定(ともさだ)(扇谷)は丹後(たんご)守護、尊氏の執事となり、憲顕(のりあき)は伊豆、上野(こうずけ)、越後(えちご)3国の守護に任じ、足利基氏(もとうじ)が鎌倉府を開くに及びその執事となった。以後、上杉諸家は交互に関東執事(のち管領(かんれい))を務めた。
 憲顕の子憲栄(のりひで)の流は越後国守護となり越後上杉と称したが、定実(さだざね)に至り嗣子(しし)のないままに断絶した。詫間は早く衰え、犬懸も氏憲(禅秀(ぜんしゅう))の代に関東公方(くぼう)足利持氏(もちうじ)、山内憲基(のりもと)に敵対し、1417年(応永24)滅亡した。のち関東の実権を握った山内、扇谷両上杉は、文明(ぶんめい)末年(15世紀末)ころから相互に抗争を続け、永正(えいしょう)年間(1504~21)北条氏が興るに及んで協力してこれに対抗したが、1546年(天文15)山内憲政(のりまさ)、扇谷朝定(ともさだ)(朝興(ともおき)の子)が北条氏康(うじやす)と武蔵(むさし)河越(かわごえ)城に戦い、朝定の敗死によって扇谷家は滅亡した。憲政もまた北条氏に抗しえず越後に走り、1561年(永禄4)関東管領職と上杉姓を越後守護代長尾景虎(ながおかげとら)(謙信(けんしん))に譲った。上杉氏を継いだ謙信は北陸から関東に及ぶ領土を築き、その跡を受けた甥(おい)景勝(かげかつ)は豊臣秀吉(とよとみひでよし)に従って五大老に列し、1598年(慶長3)会津120万石を与えられて春日山(かすがやま)から若松に移った。1600年徳川家康に抗し関ヶ原の戦いの口火を切ったが敗れ、翌年出羽(でわ)米沢(よねざわ)30万石に移され、1664年(寛文4)綱勝(つなかつ)の末期(まつご)養子を許されて綱憲(つなのり)(吉良義央(きらよしなか)の長男)が襲封するに際し15万石に削封され、以後幕末に及ぶ。明治期に伯爵を授けられた。[小林清治]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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旺文社日本史事典 三訂版

上杉氏
うえすぎし
室町時代より江戸時代に至る武家の名門
始祖重房は勧修寺流藤原氏の出身。鎌倉幕府皇族将軍となった宗尊親王に従って鎌倉に下り,のち武士となり,丹波(京都府)上杉庄を領し上杉氏と称した。その孫は足利氏に嫁し,尊氏・直義 (ただよし) の生母となった関係から,室町時代には鎌倉府の管領に任じられ,広く関東に勢力を広げた。一族は扇谷 (おうぎがやつ) ・詫間 (たくま) ・犬懸 (いぬがけ) ・山内 (やまのうち) の4家に分かれ,ことに扇谷・山内両家が栄えたが,後北条氏に敗れ,まず扇谷家が滅び,山内憲政 (のりまさ) も領国越後へのがれ,守護代長尾景虎(謙信)に上杉姓と管領職を譲った。謙信は越後を領する戦国大名として著名。その後養子景勝は豊臣秀吉に従い会津120万石を領したが,関ケ原の戦い(1600)で西軍に属し減封され,外様大名として米沢30万石を領した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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