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下剋上【げこくじょう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

下剋上
げこくじょう
室町時代において,社会的に身分の低い者が身分の位の者を実力で倒す風潮をいう。応仁の乱によって将軍の権威は失墜し,その無力が暴露するに及んで,守護大名の勃興と荘園制の崩壊を招き,実力がすべてを決定する時代が現出した。その結果,将軍は管領に,守護守護代に取って代られ,農民一揆をもって支配階級に反抗するようになった。足利将軍が管領細川氏に,細川氏が家臣三好氏に,三好氏が家臣松永氏にそれぞれ権力を奪われたことや,松永久秀が将軍足利義輝を襲って自殺させたのはその最も典型的な例であるが,この風潮も織田信長や豊臣秀吉の出現によって消滅した。

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デジタル大辞泉

げ‐こく‐じょう〔‐ジヤウ〕【下×剋上/下克上】
下の者が上の者に打ち勝って権力を手中にすること。南北朝時代から戦国時代、農民が領主に反抗して一揆として蜂起し、また、家臣が主家を滅ぼして守護大名戦国大名になっていった乱世の社会風潮をいう。

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世界大百科事典 第2版

げこくじょう【下剋上】
尅上〉〈下克上〉〈下刻上〉〈下極上〉とも記され,〈下位のものが上位のものにうち勝ち,現状を否定して,ほんらいの順序を逆転させる言動〉といった意味で鎌倉時代以降さかんに用いられた語。建武新政の混乱期に現れた《二条河原落書》に〈下克上スル成出者(なりでもの)〉とあるのは著名だが,《源平盛衰記》巻六に早期の用例がみえており,下っては《大乗院寺社雑事記》に山城国一揆を評して〈下極上の至りなり〉と記しているのも名高い。

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日本大百科全書(ニッポニカ)

下剋上
げこくじょう
地位の下の者が上の者をしのぎ、あるいはとってかわることを意味する語。「下克上」とも書かれる。社会の変革期には、新しい勢力の台頭に伴って下剋上の現象はつねにおこるが、とくに南北朝期から戦国期にかけて、主として支配者の側から、秩序を乱す動きとして反感と侮りを込めて用いられることが多かった。建武(けんむ)政権の混乱を風刺した「二条河原(にじょうがわら)落書」に「下克上する成出(なりで)者」と記されたり、興福寺(こうふくじ)の大乗院(だいじょういん)門跡が、応仁(おうにん)の乱(1467~77)中に自衛する大和(やまと)布留郷(ふるごう)民の動きを「下極(剋)上の基(もとい)、神威を失うべき条、以(もっ)ての外の次第なり」と嘆いたごとくである。課役に苦しむ百姓が領主に抵抗し、あるいは荘(しょう)域を越えて連合した民衆が土一揆(つちいっき)として蜂起(ほうき)する動きなどが、下剋上の運動の基盤であった。百姓のなかから地侍(じざむらい)が成長し、彼らが室町幕府と守護の支配体制に対抗して党や一揆などの新しい在地支配秩序をつくり始めると、これに押されて支配者の間での上下・新旧の勢力の交代劇が広範に引き起こされた。応仁の乱で越前(えちぜん)国守護の斯波(しば)氏が家臣の朝倉氏に領国を奪われたのに始まり、各地の守護家の実権が守護代や有力国人(こくじん)の手中に帰して、そのなかから戦国大名が生まれた。今川氏の食客から身をおこした伊勢長氏(いせながうじ)(北条早雲(ほうじょうそううん))が1491年(延徳3)伊豆国韮山(にらやま)の堀越公方(ほりこしくぼう)、続いて95年(明応4)相模(さがみ)国小田原の大森氏を滅ぼして戦国大名に急成長した例、あるいは美濃(みの)国守護土岐(とき)氏の家臣の名跡を次々に継いで出世し、ついに主家を纂奪(さんだつ)した斎藤道三(どうさん)などが下剋上の顕著な例として知られるが、支配者をもっとも恐れさせた下剋上は、守護を滅ぼして「百姓ノ持タル国」を実現した加賀(かが)国の一向(いっこう)一揆であった。
 室町幕府は、1493年管領(かんれい)細川政元(まさもと)が将軍足利義材(あしかがよしき)(義稙(よしたね))を追放して以後、細川氏の政権と化し、乱世の傾向に拍車をかけた。細川氏は16世紀中ごろに家宰の三好長慶(みよしながよし)に実権を奪われ、三好政権は家臣の松永久秀(ひさひで)に崩された。その間に戦国大名は、家臣団に組織した地侍層が下剋上の温床にならないように、農民支配と主従関係を強化した。しかし、激しい抗争に追われて早急な軍事力増強を果たさねばならなかったので、在地の古い秩序に依存することが多く、下剋上の危機にみまわれ続けた。動乱を収束した豊臣(とよとみ)政権の統一政策、とくに兵農分離の断行によって、ようやく下剋上の根が断たれた。[村田修三]
『永原慶二著『日本の歴史10 下剋上の時代』(1965・中央公論社) ▽鈴木良一著『応仁の乱』(岩波新書) ▽稲垣泰彦・戸田芳実編『日本民衆の歴史2 土一揆と内乱』(1975・三省堂) ▽永原慶二著『中世内乱期の社会と民衆』(1977・吉川弘文館) ▽『動乱の戦国時代』(『歴史公論』17号・1977・雄山閣出版)』

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