●下地中分【したじちゅうぶん】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
下地中分
したじちゅうぶん
出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
デジタル大辞泉
したじ‐ちゅうぶん〔したヂ‐〕【下地中分】
出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
世界大百科事典 第2版
したじちゅうぶん【下地中分】
出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.
日本大百科全書(ニッポニカ)
下地中分
したじちゅうぶん
13世紀中ごろ(鎌倉中期)から14世紀末ごろ(南北朝末期)まで行われた、年貢・公事(くじ)などをめぐる争論の解決方法の一つ。上分(じょうぶん)(年貢および公事などの剰余生産物)を確保するため、これを生み出す土地すなわち下地を分割する方法である。主として荘園(しょうえん)領主(本家(ほんけ)、領家(りょうけ))と地頭(じとう)の間で実施され、鎌倉・室町幕府がこれを政策的に推進した。寺社領の場合に多くみられ、かつ地域的には全国にわたるが、中国、四国、九州などの西国地方に事例が多い。13世紀になると地頭や有力名主(みょうしゅ)らによる荘域内外の未開地の開発の進行、農業生産以外の山野河海(さんやかかい)利用の発展(狩倉(かりくら)、伐木、漁労など)によって新たな得分(とくぶん)が生まれたが、これに伴い、地頭らの領主的支配は、従来からの年貢、公事抑留にとどまらず、田畑(たはた)、山野などの領有のいっそうの拡大に向かった。さらに承久(じょうきゅう)の乱(1221)後、西国地方に置かれた新補地頭(しんぽじとう)らの荘園侵略もこれに輪をかけたため、領家、地頭間の争論は頻発した。その解決のため、年貢などの地頭請(うけ)とともに、ややこれにおくれ、かつ並行して行われたのが下地中分である。その方法として、争論対象地全体を分割し、それぞれ一方を両者が領有し、相互にこれを侵さないように境界線を引いた。その際田畑、山野などの地目や地形を考慮して分割するのみならず、居住する農民まで分割することもあり、また本来両者の得分の量に応じて分割するのが原則であったから、「中分」といっても均等分割とは限らなかった。その手続としては、当事者相互の和解によるもの(和与(わよ)中分)と、領家方から申請を受けた幕府が、一方的に中分命令を下す例があった。いずれにせよ、その結果、正式に中分絵図や分文(わけぶみ)が作成され、幕府の承認を得て相互に一円支配を行うことになった。
[島田次郎]
『安田元久著『地頭及び地頭領主制の研究』(1951・山川出版社)』▽『竹内理三編『体系日本史叢書6 土地制度史Ⅰ』(1973・山川出版社)』
出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
精選版 日本国語大辞典
したじ‐ちゅうぶん したヂ‥【下地中分】
出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
旺文社日本史事典 三訂版
下地中分
したじちゅうぶん
鎌倉時代の中ごろから地頭はしばしば年貢を納めなかったり,土地を横領したりして,荘園領主との間に争論が絶えなかった。その解決法として荘園そのもの(下地)を折半して,互いにその領有を認めて侵犯しないようにした。これには幕府の裁決(強制中分)と両者の自主的和解(和与中分)による場合とがある。鎌倉中期以降急速に増加し,地頭請とともに地頭の荘園支配権を強化し,荘園制の崩壊を促した。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
執筆者一覧(50音順)
金澤利明 竹内秀一 藤野雅己 牧内利之 真中幹夫
Copyright Obunsha Co.,Ltd. All Rights Reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
「下地中分」の用語解説はコトバンクが提供しています。
●下地中分の関連情報