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下野国【しもつけのくに】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

下野国
しもつけのくに
現在の栃木県。東山道の一国。上国。もと毛野国 (けぬのくに) が上毛野国 (かみつけぬのくに。のちの上野国) と下毛野国 (しもつけぬのくに。のちの下野国) とに分かれたという。毛野臣 (けぬのおみ) は東国の大族として『日本書紀』にしばしば現れる。下毛野国造とともに那須国造の存在が持統3 (689) 年の那須国造碑 (大田原市) にみえる。国府は栃木市に,国分寺は下野市国分寺に置かれた。『延喜式』には足利郡,梁田郡,安蘇郡,都賀郡,寒川郡,河内郡,芳賀郡,塩屋郡,那須郡の9郡があり『和名抄』には郷 70,田 3015町を載せている。平安時代中期,地方に武士の勢力が強まると,その先駆をなして天慶2 (939) 年関東に平将門が乱を起こし,一時は下野の国府も陥った。このとき将門の乱を平定した藤原秀郷が下野守に任じられた。秀郷の子孫小山氏を名のり,鎌倉時代には守護として強い勢力をふるった。このほか足利郡の足利荘には源義家の孫義康から始まる源氏 (→足利氏 ) がしだいにその勢力を蓄え,鎌倉時代には北条氏と結び幕府において重きをなし,やがて足利尊氏が鎌倉幕府に代わって政権を握るにいたった。室町時代には小山氏,宇都宮氏結城氏が守護となったが関東管領の管轄下に置かれた。江戸時代には宇都宮藩足利藩烏山藩黒羽藩大田原藩壬生藩,佐野藩,吹上藩喜連川藩の諸藩に分かれていた。明治4 (1871) 年廃藩置県で,4月に各藩はそれぞれ県となり,11月に宇都宮県と栃木県とに併合され,さらに 1873年6月に栃木県に合併された。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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藩名・旧国名がわかる事典

しもつけのくに【下野国】
現在の栃木県域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東山道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府栃木市国府(こくふ)、国分寺は下野(しもつけ)市国分寺におかれていた。平安時代中期に平将門(たいらのまさかど)の乱を平定した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が下野守(かみ)として土着。その子孫の足利(あしかが)氏、佐野氏、小山(おやま)氏、結城(ゆうき)氏らが勢力をもち、武士団を形成した。南北朝時代から室町時代には鎌倉公方(くぼう)の管轄下にあったが、戦国時代は諸氏の争奪が続いた。江戸時代には宇都宮(うつのみや)藩のほか、幕府直轄領、旗本領、また小藩が分立したが、徳川幕府の神祖徳川家康(とくがわいえやす)が東照大権現(とうしょうだいごんげん)として日光に鎮座し、重みをなした。1871年(明治4)の廃藩置県により栃木県、宇都宮県が生まれたが、1876年(明治9)に合併し栃木県となった。◇野州(やしゅう)ともいう。

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

しもつけのくに【下野国】
旧国名。野州。現在の栃木県。
古代
 東山道に属する上国(《延喜式》。ただし例損すなわち国内の荒廃田が10分の3以下のときは大国なみの扱いをうけた)。大化前代は大別すると,那須国造,下毛野国造に代表される二つの政治的・文化的地域に分かれていた。下毛野は渡良瀬川をはさんで西側の上毛野とともに毛野(けぬ)としての独自の文化圏を形成していた。大化改新以後,(こおり)の設置が進行していく過程で那須が評(郡)として位置づけられた(那須国造碑)。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

下野国
しもつけのくに
北関東にあった旧国名。地域は現在の栃木県にほぼ一致する。『和名抄(わみょうしょう)』によると足利(あしかが)、梁田(やなだ)、安蘇(あそ)、都賀(つが)、寒川(さむかわ)、河内(かわち)、芳賀(はが)、塩屋(しおのや)、那須(なす)の9郡からなっているが、これら郡名は明治に至るまで残存した。ただし「塩屋」は「塩谷」とされた。以上、国、郡の設立年代は不明であるが、北関東は古く「毛野(けの)」とよばれ、分かれて上野(こうずけ)国と下野国となったのである。文献に下野国の名が最初に現れるのは676年(『日本書紀』天武(てんむ)天皇5年5月7日条)であり、少なくもこれ以前に下野国は設立されていたと考えられる。現在、大田原(おおたわら)市湯津上(ゆづかみ)にある那須国造(くにのみやつこ)碑は、古代史解明に貴重な史料を提供するものである。その文中に689年(持統天皇3)那須直韋提(なすのあたえいでい)が評督(こおりのかみ)を賜ったとあるのは、このとき那須国が那須郡となり、下野国に編入されたことを示す。さらに下野の古代史において忘れることができないのは下野薬師寺の存在である。同寺の創建年代は天武天皇(在位673~686)時代とされ、同寺に戒壇が設けられたのが761年(天平宝字5)とされる。東大寺、筑紫(つくし)観世音寺(かんぜおんじ)のそれとともに三戒壇という。坂東(ばんどう)十国の得度(とくど)をしようとする者はことごとく同寺へ集まった。
 辺境にあって蝦夷(えぞ)と対峙(たいじ)し、緊張関係を維持した関東地方には、武力を蓄える豪族が輩出した。彼らは農民を使役して耕作、開墾を行うもので、彼らの私闘が反乱へと拡大したのが平将門(まさかど)の乱である(939~940)。下野国もこの戦乱に巻き込まれたが、その平定に功があったのが下野押領使(おうりょうし)藤原秀郷(ひでさと)であった。中世になるとその子孫は蕃衍(はんえん)した。すなわち、足利の足利氏、佐野の佐野氏、小山(おやま)の小山氏、下総(しもうさ)結城(ゆうき)の結城氏などがおもなるものであった。かくて中世になると足利、佐野、小山氏のほか、北には那須氏、中央には宇都宮氏などの在地領主が出現した。そして藤姓足利氏の後は源姓足利氏が勢威を振るい、ついに足利将軍家となったのである。
 近世になると下野の政治的景観は一変した。当国に城地を有する大名のうちで終始最大であったのは宇都宮藩であった。しかし、それでも高10万石前後にすぎなかった。下野の北辺に残った那須衆の大名、大関(おおぜき)、大田原(おおたわら)氏を除けば、いずれも譜代(ふだい)大名で激しく転封した。かくて領有形態は、大名、旗本、寺社領および幕府直轄領と複雑な入り組み状態を形成した。これも幕府の強力な権力支配下にして初めて可能なことであった。この幕府の「神祖」徳川家康が東照大権現(とうしょうだいごんげん)として日光山に鎮座したことは、当国の人心に大きな影響を与えた。下野国は足利地方の機業、それに古くから有名な佐野の天命(天明)(てんみょう)鋳物のほか特別な産業もなく、主穀農業が主たるものであった。したがって後進的な地域であったが、東照宮の鎮座はそれに拍車をかけ、典型的な封建的人間像を造成した。明治維新後、当国の行政区域はしばしば転変したが、1871年(明治4)廃藩置県とともに栃木、宇都宮両県となり、73、76年の改正により現行政区域の栃木県が成立した。[秋本典夫]
『河野守弘著『下野国誌』全12巻(1848/復刻版・1959・下野新聞社)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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デジタル大辞泉

しもつけ‐の‐くに【下野国】
下野

出典:小学館
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