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両シチリア王国【りょうシチリアおうこく】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

両シチリア王国
りょうシチリアおうこく
Regno di Due Sicilie
南イタリアとシチリア島から成る王国 (1816~60) 。 15世紀前半にナポリ王とシチリア王を兼ねたアラゴン王アルフォンソ5世 (度量王。ナポリ王として1世) が「両シチリア王」の称号を初めて用い,18世紀にやはり両国の王を兼ねたスペインブルボン王がこの称号を用いたが,正式な国名としての両シチリアになるにはいたらなかった。 1815年ウィーン会議で旧領の復興を認められたフェルディナンド1世 (シチリア王として3世,ナポリ王として4世) は,以前は分離していたシチリア王国ナポリ王国を合せて 16年に両シチリア王国とすることを決め,ここに初めて両シチリア王国の国名が誕生した。ブルボン朝の反動政策は 20年にシチリアの分離主義革命とナポリのカルボナリ革命に見舞われ,48年にも両地で激しい革命の動きが生じた。 60年5月 G.ガリバルディの「赤シャツ千人隊」の遠征でシチリアのブルボン政権は崩壊し,同年9月ガリバルディのナポリ進軍で南イタリアの支配権も失い,同年 10月の住民投票で両地のサルジニア王国への併合が決って両シチリア王国は消滅した。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉

りょうシチリア‐おうこく〔リヤウ‐ワウコク〕【両シチリア王国】
ノルマン人のルッジェーロ2世が、1130年、シチリア島とイタリア半島南部を征服して建てた王国。13世紀以来、王位はドイツ・フランス・スペインの王家を転々とし、1861年、イタリア王国に併合され消滅した。

出典:小学館
監修:松村明
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世界大百科事典 第2版

りょうしちりあおうこく【両シチリア王国】

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

りょうシチリアおうこく【両シチリア王国】
シチリア島とイタリア半島南部からなる王国の通称。1130年ノルマン人が建国し、1860年イタリア王国に併合されるまでの間、支配者の交代と分裂・統合が繰り返された。正称、ナポリ王国。

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

両シチリア王国
りょうしちりあおうこく
Regno delle due Sicilieイタリア語
南イタリアとシチリア島からなる王国(1816~60)。1734年、ポーランド継承戦争の最中、スペインのドン・カルロスが、それまでオーストリアの支配下にあったナポリ地方(半島南部全域をさす)とシチリア島を征服し、両地域をスペイン系ブルボン家の支配下に置いた。しかし、19世紀初めのナポレオン時代に、ナポリはフランスの統治下に入り、ブルボン家の支配はシチリアに限られたが、ウィーン会議後、両地域はふたたびブルボン家の下に結合され、1816年12月、「両シチリア王国」と正式に命名された。シチリアはナポレオン時代の憲法を廃棄させられ、ナポリ中央政府の集権的統治下に置かれた。以後、島民の自治を求める分離運動が始まる。フェルディナンド1世に始まる歴代の王国支配は、古い社会・政治構造を維持し、民族運動に敵対的な保守反動政治に終始したので、1820年、ついで48年の革命で、ブルボン体制はしばしば揺らいだ。シチリア王国は、1860年ガリバルディの千人隊によって征服され、翌年イタリア王国に編入された。[重岡保郎]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

りょうシチリア‐おうこく リャウシチリアワウコク【両シチリア王国】
(シチリアはSicilia) イタリア半島南部とシチリア島を国土とする王国。一般には、ノルマンのシチリア伯ルッジェロ(ロジェロ)二世が、一一三〇年にイタリア半島南部とシチリア島を併せたシチリア王国を建ててから、一八六一年イタリア王国に統合されるまでの南イタリアの王国をいう。一二八二年、ナポリ王国(アンジュー家)とシチリア王国(アラゴン家)とに分かれ、一五世紀中期、アラゴン家のアルフォンソが両王国を統一して「両シチリアの王」と称した。一八世紀にこの地を支配したスペイン系ブルボン家もこの称号を用い、一時ナポレオンの支配下にはいった後、一八一六年、再びスペイン系ブルボン家が君臨して、両シチリア王国を称した。狭義には、一八一六年のスペイン系ブルボン家の王位回復後、六一年のイタリア王国合併までの両シチリア王国をさす。

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社世界史事典 三訂版

両シチリア王国
りょうシチリアおうこく
Due Sicilia
1130〜1860
イタリア南部のナポリとシチリアの両王国を合わせた通称
南イタリアへは,11世紀前半から傭兵としてのノルマン人の進出が始まった。一般には,11世紀後半にノルマンディー公国の貴族ルッジェーロ1世がシチリア伯となり,その子ルッジェーロ2世が1130年にナポリ・シチリア王となった国をさす。地中海の交通・交易要衝ということに加え,婚姻関係から諸勢力の干渉も多く政情は不安定だった。教皇・ドイツ・フランス・スペインなどの利害が交錯し,ノルマン国家断絶後はシュタウフェン家・アンジュー家・アラゴン家・ブルボン家などの支配が交替した。1815年再びブルボン家のフェルディナント1世が王国を回復したが,1860年ガリバルディに征服され,イタリア王国に統合された。厳密には,このスペイン−ブルボン家のフェルディナント1世が両シチリア王を称した南イタリア王国(1815〜60)を,両シチリア王国と呼ぶ。なお中世においては,キリスト教ギリシア正教カトリック)・イスラームの接触・共存地域として,独自の文化と繁栄を誇った。

出典:旺文社世界史事典 三訂版
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