●中国共産党【ちゅうごくきょうさんとう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
中国共産党
ちゅうごくきょうさんとう
Zhongguo gong-chan-dang
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知恵蔵
中国共産党
(中嶋嶺雄 国際教養大学学長 / 2008年)
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デジタル大辞泉
ちゅうごく‐きょうさんとう〔‐キヨウサンタウ〕【中国共産党】
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世界大百科事典 第2版
ちゅうごくきょうさんとう【中国共産党 Zhōng guó gòng chǎn dǎng】
[創立期(1919年5月~23年5月)]
ロシア革命の思想的影響と五・四運動の体験を通じて,中国の急進的知識人のあいだにマルクス主義への関心が高まり,1920年春以降,コミンテルンの働きかけと支援を受けて結党の準備が進んだ。陳独秀,李大釗(りたいしよう)がその中心となり,8月,上海で臨時中央(発起組)を発足させ,同時に外郭の半公然組織として社会主義青年団を結成して進歩的青年の結集につとめた。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
中国共産党
ちゅうごくきょうさんとう
中華人民共和国を統治している執政政党。1921年に結成され、中国国民党との抗争に勝利し、1949年政権を樹立した。党員数は8944万7000人(2016)。5年に1度開催される全国代表大会(党大会)がもっとも権威があり、省代表と、国務院、人民解放軍などの国家機関や大衆団体などの党代表、計2000~3000人によって構成される。党大会では党の重要な基本方針を決定し、党大会閉会中の重要事項を決定する中央委員会委員(200人前後)を選出する。さらに中央委員会は中央政治局委員(2017年11月時点で25人)を選出する。中央政治局会議は事実上の政策決定機関で、日常的に各分野別の党中央領導小組(たとえば、外交分野では党中央外事工作領導小組、経済財政分野では党中央財経領導小組といった組織)で重要な政策を討議し方針が絞り込まれ、それをもとに審議・決定する。中央政治局の中核として常務委員会(2017年11月時点で委員は7人)があり、そのトップが党総書記である。
[天児 慧 2018年4月18日]
総論
「中国共産党規約(党章)」によれば、党はマルクス・レーニン主義、毛沢東(もうたくとう)思想を掲げ、共産主義の実現を目ざす「労働者階級の前衛隊」であり、労働者、農民、軍人、知識人の優秀な人材を基幹として構成される。しかし1978年、改革開放路線・経済近代化に邁進(まいしん)するようになって以降、「富強の中国」建設を強調するようになり、そのためには労農兵、革命知識人のみを構成員とすることでは不十分となった。そこで、新しい時代に対応するために共産党の位置づけそのものの転換を提起する必要が出てきた。2000年2月に党総書記の江沢民(こうたくみん)は、いわゆる「三つの代表論」とよばれる新しい定義を行い(後述)、同年秋の第14回党大会で正式に党の公式の考え方として採択された。これによって顕著な業績をあげる私営企業主やハイテク産業の経営者、高学歴の専門知識人らが入党するようになった。共産党はもはや階級政党というよりも国民政党であり、単刀直入にいえば「エリートの党」となったのである。換骨奪胎といっても過言ではない。そのおもな任務も、革命、共産主義の実現というよりも、「富強中国の実現」「中華民族の偉大な復興」といった民族主義的な主張にかわってきた。
1990年前後の共産主義イデオロギーの退潮、共産党の崩壊といった世界的潮流にもかかわらず、換骨奪胎し続けた中国共産党は、党員数も増加の一途をたどった。建国時の党員は450万人(当時の全人口の0.8%)であったが、2016年末の発表では実に8944万7000人(前年比約67万人増)を超える数となっている。このようにして中国共産党は世界最大の政党となった(参考までに2012年末でアメリカの共和党は党員・党友あわせて3130万人、民主党は4351万人)。そして現在も中国内に共産党に対抗できる政治組織はほとんどなく、圧倒的なプレゼンス(存在)をもって政治の実権を掌握し続けている。
[天児 慧 2018年4月18日]
歴史
結党から中華人民共和国建国まで(1921~1949年)
中国共産党は1919年の五・四運動の愛国主義に燃えた青年たちを中心に、ソビエト連邦・コミンテルン(「国際共産主義」の略称。別名第三インターナショナル)の指導を受けながら1921年にコミンテルン中国支部として誕生した。当時は第一次世界大戦が終わり、共産主義国家ソビエト連邦が誕生し、世界では反帝国主義・反植民地主義の運動が各地で燃え広がっていた時期であった。結党の目的は「半封建、半植民地の中国」を救い、将来中国で共産主義社会を実現することであり、以後ソ連からの強い影響を受けながら、中国革命とともに紆余曲折(うよきょくせつ)した道をたどることになる。
結党間もなくソ連から求められたのは、当時最大の革命政党であった中国国民党との合作であった。国民党もソ連・コミンテルン指導のもとでソ連共産党型の組織に改組し、「連ソ容共・工農扶助」を掲げた。1924年に少数政党である共産党の党員は党籍をもったまま国民党に加入するという方式で、第一次国共合作が実現した。1925年3月孫文(そんぶん)が死去し権力を握った蒋介石(しょうかいせき)は全国制覇を目ざし北伐を開始したが、1927年4月その途上の上海(シャンハイ)で共産主義者一掃の四・一二クーデター(上海クーデター)を起こした。第一次国共合作は崩壊し、以後国共対立の時代を迎えた。
国民党からの徹底した弾圧によって共産党は都市での活動が困難となり、江西(こうせい)省一帯を中心として毛沢東のゲリラ戦術を主とした農村根拠地の拡大に重点を移した。しかし、三度に及ぶ国民党軍の包囲攻撃によって撤退を余儀なくされ、1年余りに及ぶ「大長征」を経て西安(せいあん)北方の延安(えんあん)にたどり着き、当地を拠点としてふたたび勢力の拡大が図られた。ほぼ同じ時期、東北・華北一帯への日本の侵攻が激しくなり、知識人・民間人を中心に抗日救国運動が燃え広がった。1936年12月東北を追われた国民党の将軍張学良(ちょうがくりょう)らによって蒋介石に「一致抗日」を迫った西安事件が起こり、国民党と共産党の間で水面下での調整が進められた。1937年七・七事変(盧溝橋(ろこうきょう)事件)によって日中全面戦争となり、第二次国共合作が成立した。
戦争は1945年8月の日本の無条件降伏まで続き、「南京(ナンキン)大虐殺」をはじめ数々の惨劇が生じた。同年4月、第7回共産党大会が開かれ、初めて「毛沢東思想」という表現が使われ、共産党の指導思想となった。同時に国民党主導の統一国家建設に対抗して、毛沢東は「連合政府論」を発表、それは4年余りのちに実現した中華人民共和国建国の基本的な理念・枠組みとなった。
[天児 慧 2018年4月18日]
毛沢東時代(1949~1976年)
1949年10月、国共内戦に勝利した共産党は中華人民共和国の樹立を宣言した。共産党がひとまず目ざしたのは、民族政党、民族資本家の政権参加も認めた新民主主義社会の建設だった。しかし、間もなく社会主義建設に邁進(まいしん)するようになり、やがて中国共産党は民主同盟など非共産政党を弾圧し、国家を独占する政党と化していく。
さらに1957年からの反右派闘争によって共産党、とりわけ毛沢東の独裁は強化された。続く「大躍進」はソ連への対抗を意識した毛独自の野心的な社会主義建設であったが、客観的条件を無視し、またあまりにもユートピア的であったために経済の大混乱、3600万人を超える餓死者を生み出す悲惨な事態を招いた(楊継縄(ようけいじょう)による)。
大躍進の挫折(ざせつ)、毛の第一線からの後退によって劉少奇(りゅうしょうき)、鄧小平(とうしょうへい)に経済再建のリーダーシップが託され、「白猫黒猫論」(「白猫でも黒猫でも、ネズミを捕まえる猫がよい猫である」という鄧小平の持論)とよばれるプラグマティズム(実用主義)の実践によって経済復興の成果がみられるようになっていた。しかし、それを「ブルジョア階級の復活」として危険視した毛沢東は、1960年代後半に文化大革命を発動し、劉少奇、鄧小平はじめ彼らにつながる人脈を徹底的に攻撃し、経済もふたたび大混乱に陥った。広く政治弾圧が進められたことで、ますます独裁体制は強まった。
国際的には、1963年中ソ論争が本格化し、文革期にはソ連を修正主義、やがて社会帝国主義と強く批判し対決を深め、1969年には中ソ国境紛争が勃発するほどに深刻化するに至った。
[天児 慧 2018年4月18日]
鄧小平時代(1978~1993年)
しかし、極度の貧困と政治弾圧に苦しむ多くの人々から経済、政治の立て直しを求める声が高まっていった。最初に慎重に声をあげたのが「四つの近代化」(工業、農業、科学技術、国防を近代化し、20世紀末までに世界の先進的水準に立たせる戦略)を提唱した周恩来(しゅうおんらい)であり、その遺訓を引き継いだのが復活した鄧小平であった。
鄧は、1976年に死んだ毛沢東の「後継」を自認していた江青(こうせい)ら「四人組」によって、第一次天安門事件(1976)で再度失脚を余儀なくされた。しかし「四人組」の失脚後、鄧は復活し、毛の後継者となった華国鋒(かこくほう)らと激しい権力闘争を繰り広げ、1978年12月の第11期中央委員会第3回全体会議(三中全会)で、経済建設、近代化路線への転換に成功した。さらに「三七開」(三分の批判、七分の評価)というやり方で毛沢東評価に決着をつけ、外資、先進技術の導入をもくろむ経済特別区構想、農業請負制の推進、やがて市場経済導入など、大胆に「改革開放」を推進した。しかしすでに高齢となっていた鄧小平は自らが最高指導ポスト(党総書記)につくことなく、後継者として胡耀邦(こようほう)を党総書記に、趙紫陽(ちょうしよう)を国務院総理(首相)に指名し、自らは一歩下がって大局的な指導をするという、いわゆる「トロイカ体制」によって改革開放の推進を図った。
政治改革の面でも、党・指導幹部の定年制導入、権力の下放・分散化などいくつかの取り組みが進められた。しかし、政治改革論議は党指導の問題、民主化の問題に触れ、政治的緊張が高まり、やがて1989年、第二次天安門事件を引き起こすこととなった。同事件は、1987年に党総書記を解任された胡耀邦の死を契機に、胡の名誉回復を求める声と学生らの民主化要求が結び付き、広範な運動となったため、学生への支持か弾圧かの対立が党内に生まれ、深刻な政治混乱に陥った。鄧小平は弾圧、党総書記の趙紫陽は支持の立場にたち、結局鄧小平の軍導入の指示によって学生運動は鎮圧され、趙紫陽は失脚した。
しかし鄧は間を置かず、「改革開放路線は変わらない」と強く宣言し西側の経済支援の引き留めに尽力した。とりわけ1992年春節に88歳の老体にむち打ち上海、深圳(しんせん)などを訪問し檄(げき)を飛ばしたいわゆる「南巡講話」では、イデオロギー論争をするなと訴え、「社会主義市場経済」を提唱した。これにより、海外からの投資も回復し経済はふたたび高成長に転じた。
[天児 慧 2018年4月18日]
江沢民時代(1993~2002年)
第二次天安門事件以降の鄧小平の基本戦略は「経済開放、政治引締め」であり、その推進を江沢民にゆだねた。江沢民は党総書記、国家主席、軍事委員会主席のトップ三権を独占し、愛国主義のイデオロギー教育を強化した。経済は朱鎔基(しゅようき)が国務院総理に就任し、税制改革、国有企業改革などで辣腕(らつわん)をふるった。2000年、念願の世界貿易機関(WTO)加盟が実現し、対外貿易が活発化し、外資の導入も加速され、指導者自身の予測をはるかに超える勢いで経済成長が進んだ。
そうしたなかで共産党の位置づけに関する深刻な矛盾が露呈した。共産党は長く「労働者階級の前衛隊」と位置づけられてきたが、経済発展を最優先する方針はその主力を最新の知識、能力、技術をもつ企業家、技術者、知識人とせざるをえなかった。そこで2002年第16回党大会で共産党の再定義を試み、(1)先進的な社会の生産力、(2)先進的な文化、(3)もっとも広範な人民の利益という「三つの代表」を主張するようになったのである。また「中国人民と中華民族の前衛である」という一文も加えられた。これによって、共産党は長く固持し続けてきた「階級政党」という概念を放棄し、企業家、高学歴知識人、スポーツ・文芸各界の著名人なども入党できる「国民政党」「民族政党」になった。
[天児 慧 2018年4月18日]
胡錦濤時代(2002~2012年)
胡錦濤(こきんとう)時代は、数字的にはきわめて順調に発展し、2010年、国内総生産(GDP)で中国はついに日本を抜きアメリカに次いで世界第2位の地位を占めるまでになった。2008年のオリンピック北京(ペキン)大会、2010年の上海国際博覧会(上海万博)も成功裏に終え、中国のプレゼンスを遺憾なく世界に示すこととなった。
しかし一皮むいて内部をみてみると、貧富の格差、非民主的な政策決定、汚職・腐敗の蔓延(まんえん)、沿海内陸をあわせ環境汚染の深刻化などがあり、いわゆる「病める社会」の特徴を同時に強めていった。これに対して胡錦濤政権は「和諧(調和のとれた)社会」の実現を目ざしたが、抜本的な改善には至らなかった。
[天児 慧 2018年4月18日]
習近平時代(2012年~ )
胡錦濤を継いだ習近平(しゅうきんぺい)は「二つの百年の成功」という「中国の夢」の実現を大目標に掲げ登場した。一つは2021年で共産党結党100周年であり、全面的な小康社会(まずまずの生活水準確保)の実現と、GDPでアメリカに追いつくことである。もう一つは2049年で中華人民共和国建国100周年であり、総合国力でアメリカと肩を並べ、世界の指導国家となることである。習近平政権が目ざしているものは、共産党指導を堅持して体制の安定を図り、「中華民族の偉大な復興」を実現していくことであり、共産主義社会の実現などほとんど忘れ去られてしまったかのようである。
習近平政権は、そのスタートとして周永康(しゅうえいこう)(1942― )、令計画(れいけいかく)(1956― )ら党の大物、徐才厚(じょさいこう)(1943―2015)、郭伯雄(かくはくゆう)(1942― )ら人民解放軍の大物を逮捕・失脚させるなど徹底した反腐敗闘争(反腐敗運動)を展開し、対抗勢力の指導者を失脚させた。これらの行動は深刻な腐敗・汚職に嫌気がさしていた民衆から喝采(かっさい)を浴びた。同時に権力基盤の弱かった習近平の政権を強化することとなった。
さらに習はこれまで各分野での政策審議、政策提案を行ってきた党中央の各領導小組のトップ(組長、主任)を自ら独占しただけでなく、内外の安全保障、軍事、外交などを統括する新組織・中央国家安全委員会を設立し、その主任にも就任し、およそ権力を構成するあらゆる機関を習が掌握した。解放軍も総参謀部など「四総部」、七大軍区の改組などに手をつけ、習への権力集中を進めた。
2017年11月に第19回党大会が開かれ、習近平第2期政権がスタートした。前年の第18期六中全会で「習近平は党の核心」という位置づけが承認され、第19回党大会では「習近平『新時代の中国の特色ある社会主義』思想」という表現が行動指針として党規約に盛り込まれた。これによって習は毛沢東、鄧小平に肩を並べる党の指導者に格づけされたといえる。さらに習を含む7人の政治局常務委員、25人の政治局員は、派閥均衡的な配置ではなく、李克強、韓正(かんせい)を除き基本的には古くから習と緊密な関係にあった人物、習がトップリーダーになって以降、一貫して習への忠誠を示し、政権強化に功績をあげた者たちによって構成された。トップセブン(政治局常務委員)の一人となった王滬寧(おうこねい)が、政治改革論議が燃え盛った1980年代後半に若手政治学者のスターとして登場したとき、彼が主張したのが、「今の中国には民主化よりも近代化を強く志向する開明的な近代主義者の独裁が必要である」という、いわゆる新権威主義独裁(一般的な開発独裁)が必要であるという主張であった。まさに今日の習近平によってそれが体現されているかのようである。
[天児 慧 2018年4月18日]
統治機構
党と国家の関係
憲法上は立法機関の全国人民代表大会(全人代)が最高権力機関と規定されているが、実際には重要事項の審議、基本的方針は党内(たとえば中央政治局、中央委員会など)で決定される。その案が全人代に提出され一応審議・決定されるが、一般的にはごく形式的な手続とみなされている。
今日の中国は周知のように共産党が国家や社会を掌握し、コントロールしている体制である。それを実行するための仕組みとして、きめ細かな統制・伝達・監視の仕組みをつくりあげてきた。それは政府、全人代、裁判所はもちろん企業、工場、学校などあらゆる組織に党委員会や党組(フラクション)を設置し、党指導部の意図や方針を各社会のあらゆる組織の内部にまでしっかりと浸透させ、上級党組織の指導のもとに政府や社会組織をコントロールする仕組みである。そのうえで、党は軍事・公安といった暴力装置をしっかりと掌握し、さらに中央から末端まで宣伝部を組織し、新聞、テレビ、ソーシャルメディアなどイデオロギー分野をコントロールしている。
[天児 慧 2018年4月18日]
党中央と地方の関係
党における中央と地方の関係では、下級組織はさまざまな意見や要求を上級組織に上げることができるが、上級組織で決定された政策に関しては絶対服従が要求される(いわゆる民主集中制)。しかし現実には、表向きは地方が中央に従っているようにみせながら、実際には中央の意向に反した行動をすることがしばしば起こっている(「上有政策、下有対策」「陽奉陰違」などといわれる)。既得権益集団と結託した地方政府による環境汚染や腐敗の横行などは、まさにその典型事例である。
このため党中央は地方をしっかりコントロールするためにさまざまな試みを行ってきた。とりわけ省・市(省級に次ぐ)の指導者人事は党中央組織部が一手に握ることによってコントロールしようとしている。あるいは税制改革を通して中央に税収が集まるようにして、財政上の力関係の転換を実現してきた。
[天児 慧 2018年4月18日]
ガバナンス(治理)と民衆・社会
王朝体制に似た統治システム
もともと中国王朝体制を「超安定システム」としてとらえる考え方がある。底辺に経済構造(地主経済、農業経済)があり、上層部に儒家正統のイデオロギー構造と皇帝直結の巨大な官僚制構造があり、それら三者が相互補完的に関係しあうことによって、変動はあっても、修復・安定のメカニズムが働き動態的に安定を維持してきたという考え方である。
毛沢東時代も基本的には巨大な農村社会で、上層部に共産主義の正統的イデオロギー構造があり、全人代制度や国務院・人民政府制度などの巨大な官僚制構造があり、基本的な構造としては王朝時代の伝統的統治システムと類似していた。そのうえ、全国的な機構とネットワークをもつ共産党が、イデオロギーと官僚機構をしっかりと掌握していたので、伝統的統治システム以上に強力な体制になっていたと解釈できる。それゆえにこそ、大躍進による経済の瀕死(ひんし)状態、あるいは文化大革命期の官僚機構の瀕死状態でも、国家としては崩壊の局面に至らなかったのであろう。
[天児 慧 2018年4月18日]
党の支配を受け入れる民衆
党と民衆の関係では、一般的には民衆は共産党体制に対しては所与のものとして受け入れ、体制自体に異議申し立てをするケースは多くはない。しかし近年、自身の権利意識や利益に目覚め、不当にそれらを侵害しようとする者に対しては激しく抗議、対決することも頻繁にみられるようになってきた。「維権運動」とよばれ、当局の社会安定を重視する「維穏」の主張と対立している。地元幹部の不正、腐敗に対しても同様である。また学生を含む非権力の知識人たちで共産党一党体制に疑義をもつ人も増えてきているが、1950年代後半の反右派闘争、文革、天安門事件で当局の徹底した弾圧を受けた経験もあり、党に対する恐怖が強く、表だった行動に走る人々はまだごく少数である。
ちなみに、共産党以外のすべての民主諸党派を合わせても70万人余り(2007年時点)であり、9000万人近くの党員を抱える共産党とは比較にならない。
[天児 慧 2018年4月18日]
権力闘争の実態
派閥・人脈
毛沢東時代、鄧小平への権力移行期には、もちろん共産党内に派閥・人脈対立は存在した。おもに四つの野戦軍が統合した解放軍の出身野戦軍人脈による派閥対立、党機構内や国務院などでのイデオロギー重視派と実務重視派、改革積極派と保守派の対立として顕在化していた。
江沢民時代以降では、党内に経済既得権益層が生まれ新たな派閥を形成した。石油派=曽慶紅(そうけいこう)(1939― )・周永康ら、石炭派=令計画など山西(さんせい)省出身者、電力派=李鵬(りほう)家族などが代表的なものである。こうした派閥のほかに、出身母体・地域を中心に人脈ができる場合も一般的で、党幹部の親をもつ「紅二代」(太子党)、共産主義青年団を母体とする「団派(共青団派)」、文革・「四人組」失脚以降、上海出身の老幹部たちが意識的にグループ化した派閥=上海派(上海閥)などが比較的目だっている。
[天児 慧 2018年4月18日]
江沢民・胡錦濤・習近平の権力闘争
毛沢東、鄧小平が健在であったころは、最終決定権は彼らにあったので、彼らの意思で、ある人物が打撃されることはあっても、それ以外の理由で激しい権力闘争が展開されることは、表だってはあまりなかった。江沢民は第二次天安門事件において上海の民主化運動弾圧で評価を受け、鄧小平の指示でトップに抜擢(ばってき)された。政治基盤は弱く、軍歴のない中央軍事委員会主席であったが、上海派と鄧小平の支持をバックにライバルを次々と引退に追いやり、また自分が抜擢した軍指導者を徐々にトップにつけるなどして基盤を強化していった。
権力闘争による政治消耗を避けるために、鄧小平は生前に江沢民の後継者候補として胡錦濤を指名していた。鄧小平の死(1997)後、2002年第14回党大会で任期満了の江沢民にかわって胡錦濤が党総書記のポストにはついた。しかし中央軍事委員会主席のポストは江沢民が固持し、結局胡錦濤が中央軍事委員会主席に着任したのは2年後であった。10年余り最高権力を握ってきた江沢民はその後も着々と彼独自の人脈を強化し、党政治局、政治局常務委員会でも、中央軍事委員会でも彼は強い影響力を保ち、総書記の胡錦濤、国務院総理の温家宝(おんかほう)らの政策や人事に干渉してきた。胡・温が重視した「和諧社会」の実現、対日協力関係のレベルアップなども十分な成果をあげることができなかった。
2010年ころから、胡錦濤政権のレイムダック(死に体)化がいわれるようになり、2012年秋の第18回党大会では胡錦濤の後継者として有力視されていた共青団派の李克強(りこくきょう)が総書記のポストにつくことができず、習近平にその座を渡さざるを得なかった。習近平は元副総理の習仲勲(しゅうちゅうくん)(1913―2002)を父にもつ「紅二代」であり、江沢民派といわれてきたが、彼の政権誕生の裏で胡錦濤との協力関係があったと考えられた。とくに江沢民との関係が深いといわれていた中央政治局委員・重慶(じゅうけい)市党書記の薄熙来(はくきらい)(1949― 。彼も父が元副総理の紅二代)追い落としでは、胡錦濤からなんらかの支持があったと考えられる。薄熙来の後ろ盾であった周永康一派の一掃、解放軍内の江沢民派のトップであった徐才厚・郭伯雄両副主席の失脚で、習近平と江沢民とは協力でなく対立の関係にあることがみえてきた。
その後も習近平自身への権力集中の野望は尽きず、上述したさまざまな政策決定組織(小組・委員会)のトップについただけでなく、共青団系で自らになびいてこない指導者の排除に乗り出していった。とくに、国家副主席の李源朝(りげんちょう)(1950― )周辺の指導者たちの切り崩しが進み、その結果第19回党大会で李源朝自身の失脚が実現。さらに党宣伝部長の劉奇葆(りゅうきほう)(1953― )が失脚、かつ従来は、共青団第一書記は任期終了後地方のトップに転任するのが通例であったが、今回、共青団第一書記の秦宜智(しんぎち)(1965― )はそのような待遇を受けなかった。こうした人事によって李克強、その背後にいる胡錦濤の共青団人脈の力は一挙にそがれたことになる。しかし、ことはそれほど習近平の思惑どおりにいくかどうか。第19回党大会で習が宣言した、(1)国内経済社会矛盾の克服、(2)「一帯一路」の対外戦略の推進、(3)膨大な資金、技術を投入した「軍事強国化戦略」がもしつまずくようなことにでもなれば、国内で抑え込んだ反習近平勢力の巻き返し、アメリカを軸とした国際秩序維持派の巻き返しは必至となるであろう。
[天児 慧 2018年4月18日]
『天児慧他編『岩波現代中国事典』(1999・岩波書店)』▽『毛里和子著『現代中国政治 グローバル・パワーの肖像』(2012・名古屋大学出版会)』▽『天児慧著『中華人民共和国史』(2013・岩波新書)』▽『天児慧著『「中国共産党」論』(2015・NHK出版新書)』
出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典
ちゅうごく‐きょうさんとう ‥キョウサンタウ【中国共産党】
出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社世界史事典 三訂版
中国共産党
ちゅうごくきょうさんとう
1921年に結成。五・四運動とロシア革命から大きな影響を受け,上海で結党。初め中国国民党と反軍閥・反帝国主義で連合戦線を組んだ(国共合作)が,五・三〇事件・北伐 (ほくばつ) を通じて党勢が伸張すると,国民党右派に弾圧された。党活動は都市から農村に移り,井崗山 (せいこうざん) を中心に解放区工作とソヴィエト地区建設に名声をあげた毛沢東は,朱徳による紅軍の結成と相まって,1931年瑞金 (ずいきん) に中華ソヴィエト共和国を成立させた。のち国民党の攻撃を受け,1934年長征を決行,35年八・一宣言で抗日民族統一戦線を訴え,長征の成功によって毛沢東の指導権が確立した。1936年延安に首都を定め,西安事件を契機に第2次国共合作が実現した。抗日戦の長期遂行のために1940年毛沢東の新民主主義論を新しい政治指導路線として採択し,42年整風運動を展開,党員の自己改造教育を行った。また第二次世界大戦後,国共内戦の最中,1947年に中国土地法大綱を発表し,地主制度の撤廃をはかった。革命戦争に勝利し,国民党を台湾に追い,1949年10月この党を中心に中華人民共和国が成立した。その後三反五反運動,百家争鳴,大躍進政策,中ソ論争さらに文化大革命の激動期を通じて党勢を拡大し,1975年1月に採択された新憲法は,党の指導性と毛主席の権威を明記するに至った。1976年毛沢東の死後,鄧小平らが台頭し,四人組の排除,毛思想の超法規性是正による党幹部の世代交代を進め,82年胡耀邦を党総書記に選任した。改革・開放路線を進める胡耀邦が1987年に解任されると,趙紫陽が党総書記に選任された。しかし趙紫陽も1989年の天安門事件の収拾に失敗して失脚し,江沢民が党総書記に抜擢され,97年の鄧小平死後は実質的な中国の指導者となっている。
出典:旺文社世界史事典 三訂版
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旺文社日本史事典 三訂版
中国共産党
ちゅうごくきょうさんとう
1921年,李大釗 (りたいしよう) ・陳独秀・毛沢東らを中心として上海で結成。国共合作で勢力を伸ばしたが,'27年蔣介石の上海クーデタにより国共合作は分裂し,弾圧されて延安に移る。'35年抗日人民戦線を提唱,第2次国共合作を行い,抗日戦線の主動力となる。第二次世界大戦後,国共内戦で国民党を台湾に追いやり,'49年に中華人民共和国を建国した。
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金澤利明 竹内秀一 藤野雅己 牧内利之 真中幹夫
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