●井沢弥惣兵衛【いざわやそべえ】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
井沢弥惣兵衛
いざわやそべえ
[没]元文3(1738).3. 江戸
江戸時代中期の治水家。紀伊国那賀郡溝口村の人,名は為永,弥惣兵衛は通称。享保7 (1722) 年8代将軍徳川吉宗に召されて幕府勘定所に出仕,新田検地や諸国の河川工事にあたった。同 12年武蔵国見沼代用水路の開発に着手,翌年完成,灌漑高は約 15万石,303ヵ村に及んだ。以後も多く治水のことにあたり,同 16年勘定吟味役,同 20年美濃郡代兼務,元文2 (37) 年辞職し寄合となった。見沼代用水路の柴山伏越 (ふしこし) ,掛渡樋 (かけどい) ,通船堀閘門 (つうせんぼりこうもん) などの構造は当時の技術水準からみて驚くべきもので,紀州流土木工法の祖として土木史上の功績は顕著なものがある。
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デジタル大辞泉
いざわ‐やそべえ〔ゐざはやソベヱ〕【井沢弥惣兵衛】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
井沢弥惣兵衛 いざわ-やそべえ
承応(じょうおう)3年生まれ。紀伊(きい)和歌山藩士であったが,藩主徳川吉宗が将軍になると享保(きょうほう)7年幕臣となり,16年勘定吟味役。のち美濃(みの)郡代をかねる。治水事業や新田開発に成果をあげ,武蔵(むさし)見沼代用水(埼玉県)の開削で知られる。元文3年3月1日死去。85歳。名は為永(ためなが)。
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世界大百科事典 第2版
いざわやそべえ【井沢弥惣兵衛】
江戸中期の武士。名は為永。はじめ紀州藩士,のち8代将軍徳川吉宗に召されて旗本。勘定から勘定吟味役となり,晩年には美濃郡代を兼務。蔵米200俵取りで,のち300俵加増される。紀州流の治水技術者で普請役とともに,幕府の新田開発や川除(かわよけ)・用悪水普請の指導に当たる。武蔵の見沼(見沼代用水),下総の飯沼・手賀沼,越後の紫雲寺潟新田などの干拓で有名。新田検地条目の制定にも関与した。【大谷 貞夫】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
井沢弥惣兵衛
いざわやそべえ
(1663―1738)
江戸時代屈指の治水家。紀伊国(和歌山県)那賀(なが)郡溝口村に生まれる。名は為永(ためなが)。紀州藩士、のち徳川吉宗(よしむね)の将軍就任後幕臣となる。1722年(享保7)、幕府の勘定所に召され、25年勘定吟味役格、31年勘定吟味役、35年美濃(みの)国(岐阜県)郡代兼任。37年(元文2)役を辞し寄合(よりあい)となる。吉宗に重用され、享保(きょうほう)の改革(1716~45)において、治水、農業開発に敏腕を発揮、河川を中心とする土木技術に多くの新機軸を開発し、紀州流の開祖となった。とくに利根(とね)川中流部から取水の見沼代(みぬまだい)用水(埼玉県)60キロメートルは1728年(享保13)に完成、武蔵(むさし)国の農業開発、水運に至大な貢献をした代表的事業である。木曽(きそ)川三川分流の宝暦(ほうれき)治水(1754)も彼の設計である。
[高橋 裕]
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