●仏教美術【ぶっきょうびじゅつ】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
仏教美術
ぶっきょうびじゅつ
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ぶっきょう‐びじゅつ〔ブツケウ‐〕【仏教美術】
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世界大百科事典 第2版
ぶっきょうびじゅつ【仏教美術】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
仏教美術
ぶっきょうびじゅつ
仏教の思想や信仰に基づいて、仏教独自の崇拝や儀礼、ないし教化活動の必要からつくりだされたいっさいの造形美術で、西欧のキリスト教美術と双璧(そうへき)をなす。仏教の起源がインドであるところから、仏教美術もその発生はインドであり、中国、朝鮮を経て日本にも及び、それぞれ独自の展開を示した。その多彩な展開のうち、中心をなす「仏塔」「仏教建築」「仏像」「仏画」については、それぞれの項目に詳述してある。
宗祖釈迦(しゃか)の死は紀元前485年ないし前383年ごろと考えられており、生存時すでに造形的行為があったかもしれないが、現在その遺品は残っていない。入滅後、その遺骨(舎利)は多くの信者によって分けられ、各地に持ち帰られて手厚く葬られた。その舎利を納める塔(ストゥーパ=卒塔婆(そとうば))が初期仏教美術の重要なモニュメントであり、塔自体やそれを巡る垣などには、釈迦の前生の物語である本生譚(ほんしょうたん)と仏伝を主題にした彫刻を施して荘厳(しょうごん)した。原始仏教では偶像崇拝を認めず、したがって仏陀(ぶっだ)の姿を造形化することなく、宝座、法輪、仏足跡、菩提樹(ぼだいじゅ)などで象徴的に表した。釈迦そのものを造形的に表現するようになるのは、紀元後1世紀末か2世紀の初めごろインド北部のガンダーラ地方といわれる。この地にはクシャン朝のカニシカ王(2世紀中ごろ)の時代を中心にインド・ギリシア式ともいうべきガンダーラ美術が栄え、寺院の建立、仏像の制作は空前絶後の盛況をみせた。一方、中部のマトゥラには純インド式のマトゥラ美術が生まれ、以後、釈迦の像をはじめ諸尊像の造像は全インドから国外にも及ぶに至ったのである。
仏教美術の流れを宗派別にみると、大乗美術、密教美術、浄土教美術に区分することができる。大乗仏教は釈迦入滅後に形骸(けいがい)化した伝統仏教に対し、紀元1世紀におこった革新運動で、人間救済を目ざし、釈迦の存在を超人格化して多くの仏を生み、仏菩薩(ぼさつ)など諸尊像をもつようになる。大乗に対する小乗仏教は伝統仏教の立場にたって、苦行による悟りと自己救済を目的とした。したがって、仏像はほとんど釈迦像に限られ、仏塔中心で、荘厳も本生譚、仏伝図が多く、北方仏教諸国の前期美術、およびセイロン(スリランカ)や東南アジアの南方仏教(上座部系仏教)諸国のものがこれにあたる。大乗仏教は北方ルートをたどり、中国、朝鮮、日本で盛行し、やがて密教美術を生んだ。密教美術に対することばとして顕教美術があり、日本では密教以前の、奈良仏教美術をさす。しかし、普通、小乗美術、顕教美術の語はあまり用いられない。
密教美術は4世紀ごろ、インドのナーランダ地方でおこり、インド古来のバラモン教の思想をも取り入れたもので、日本には平安初期に空海によって伝えられた。密教は室内での祈祷(きとう)を主とし、即身成仏、現世利益(げんぜりやく)を目的とするところから、千手観音(せんじゅかんのん)、不動明王など多面多臂(たひ)の異様な尊形や、怒髪忿怒(どはつふんぬ)相といった密教特有の菩薩像を生み、内容的にも表現上でも変化と複雑さを加えた。また『華厳(けごん)経』の説く壮大な宇宙観を表す曼荼羅(まんだら)図が描かれた。
平安時代には、仏滅後訪れるという末法思想が強く仏教徒の心をとらえ、末法第一年とされた1052年(永承7)を境に浄土信仰は急速に発達。阿弥陀(あみだ)信仰が広まり、弥陀の極楽浄土を描く来迎(らいごう)阿弥陀が盛行した。
また、密教と日本の神との神仏混淆(こんこう)思想の結果、本地垂迹(ほんじすいじゃく)美術が生まれた。日吉(ひえ)、熊野、春日(かすが)社の本地仏として釈迦、阿弥陀、不空羂索(ふくうけんじゃく)などが祀(まつ)られ、また山岳信仰と結び付いて蔵王権現(ざおうごんげん)のような修験(しゅげん)道の尊像がつくられたのはその例である。
鎌倉時代の初めに栄西(えいさい)による臨済禅、道元による曹洞(そうとう)禅、さらに江戸時代には隠元による黄檗(おうばく)禅が伝えられたが、禅宗では「不立(ふりゅう)文字、見性(けんしょう)成仏」を唱えたので仏像の造像は衰退するに至った。しかし師資(しし)相承を重んずるため、宗祖菩提達磨(だるま)をはじめとする祖師像や、直接の師の肖像である頂相(ちんそう)が尊重され、多くの迫真の画像・彫像がつくられた。また、禅の悟りの様相を描いた水墨による禅機画が描かれ、これから室町時代の日本独自の水墨画の世界が形成されていった。
このように、日本の造形美術は仏教を原動力として大きな発展を遂げた。たとえば庭園にしても、その造形の基本に自然即仏土といえる仏教教理があり、これが自然崇拝の精神と結び付いて、日本独自の造形表現に達したのである。仏教美術のなかで磨き抜かれた日本人の美的感覚は、仏教が衰退した近世から現代に至るまで、日本人の生活のなかに根強く受け継がれているのである。
[永井信一]
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精選版 日本国語大辞典
ぶっきょう‐びじゅつ ブッケウ‥【仏教美術】
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旺文社世界史事典 三訂版
仏教美術
ぶっきょうびじゅつ
前3世紀マウリヤ朝のアショーカ王が立てた石柱は,インド最古の遺品である。彼はさらに多数の仏骨を安置する塔を建てたといわれる。その後,塔の建立は仏教美術の主流を占め,シュンガ朝時代のサーンチーのストゥーパで頂点に達した。これまで,仏陀 (ぶつだ) は菩提樹 (ぼだいじゆ) ・輪宝・蓮華 (れんげ) などで象徴され,仏像は礼拝の対象ではなかったが,ギリシア文化の影響によりクシャーナ朝の下で前1世紀ごろから仏像彫刻が始まり,いわゆるガンダーラ美術が生まれた。その様式は南へ伝播 (でんぱ) したが,グプタ朝が成立してインド古典文化が復興し,ヒンドゥー教が盛んになると,完全にインド的表現に変化したグプタ式仏教美術が展開された。その中では,アジャンターの石窟寺院が有名。他方,仏像・菩薩 (ぼさつ) 像は中央アジアを越えて中国に伝わり,南北朝時代に敦煌 (とんこう) ・雲崗 (うんこう) ・竜門の石窟寺院が造られた。さらに朝鮮から日本におよんで飛鳥 (あすか) ・白鳳 (はくほう) 美術が生まれた。東南アジアにはジャワのボロブドゥール(8〜9世紀),カンボジアのアンコール−ワット(12世紀)の遺跡がある。
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