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以仁王【もちひとおう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

以仁王
もちひとおう
[生]仁平1 (1151). 京都
[没]治承4 (1180).5.26. 宇治
後白河天皇の第3皇子。兄が早くに出家したため,第2皇子とされることもある。母は権大納言藤原季成の娘成子。三条宮高倉宮と称した。母が摂関家の出でなかったため,才能,人望はあったが,親王宣下を受けられず不遇のうちに成長した。治承4(1180)年源頼政に奉じられて平氏討滅の謀主となり,権樹立の令旨諸国源氏に伝えて挙兵を促した。しかし,はかりごとが漏れたため,頼政とともに園城寺に入り衆徒の力を頼んだがむなしく,興福寺を頼って奈良へ逃れる途中宇治で流矢にあたってした。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉

もちひと‐おう〔‐ワウ〕【以仁王】
[1151~1180]後白河天皇の第3皇子。治承4年(1180)源頼政と謀り、諸国の源氏に平家追討の令旨を下したが露見。頼政とともにげたが戦死。三条宮。高倉宮。

出典:小学館
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編集協力:田中牧郎、曽根脩
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

以仁王 もちひとおう
1151-1180 平安時代後期,後白河天皇の第3皇子。
仁平(にんびょう)元年生まれ。母は藤原成子。平氏の圧力で親王になれず,不遇だった。治承(じしょう)4年源頼政(よりまさ)の勧めで最勝親王と自称し,平氏追討の令旨(りょうじ)を各地の源氏に発する。発覚したため頼政らと挙兵したが,治承4年5月26日山城(京都府)綺田(かばた)で討ち死に。30歳。通称は高倉宮,三条宮。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

もちひとおう【以仁王】
1151‐80(仁平1‐治承4)
後白河天皇の第3皇子。異説に1150年(久安6)の誕生。母は権大納言三条季成の娘高倉三位成子。兄の守覚法親王が早くに出家したため,普通には第2皇子といわれる。三条宮,高倉宮とも称し,のち挙兵時には最勝(親)王と号した。幼少のおり天台座主最雲の弟子となったが,師の没後還俗(げんぞく)し,65年(永万1)元服。八条院猶子。若くして英才誉れが高く,皇位継承の有力候補と目されたが,異母弟憲仁(高倉天皇)の母建春門院平滋子の妨害により,親王宣下も受けられぬ不遇をかこった。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

もちひとおう【以仁王】
1151~1180 後白河天皇の第三皇子。三条宮。高倉宮。1180年源頼政とはかって平氏討伐を計画し、自ら最勝親王と称して諸国の源氏に挙兵の令旨を発したが、事前に発覚して奈良に逃れる途中、山城国の光明山鳥居前で戦死。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

以仁王
もちひとおう
(1151―1180)
後白河(ごしらかわ)天皇の第二皇子。母は藤原季成(すえなり)の女(むすめ)成子。三条高倉(さんじょうたかくら)に住み高倉宮とよばれた。才学優れ、人望もあったが、建春門院(けんしゅんもんいん)平滋子(しげこ)(後白河天皇女御(にょうご))に嫉視(しっし)され、親王宣下を得られず王にとどまった。1180年(治承4)4月源頼政(よりまさ)の勧めにより平氏討伐の挙兵を決意する。自らを最勝(さいしょう)親王と称し、平氏討伐後は皇位につくことを宣言した令旨(りょうじ)を、源行家(ゆきいえ)を召して全国の源氏に伝えさせた。まもなく事が発覚し、王は園城(おんじょう)寺に逃れた。朝廷では王を源以光(もちてる)と改名させ土佐に流すこととした。園城寺大衆(だいしゅ)は以仁王を奉じて抵抗したが、ついに5月25日、夜陰に脱出し奈良に向かった。翌日宇治川(うじがわ)での戦いで頼政以下ことごとく討ち死にした。このとき王は流れ矢に当たって死んだという。[田辺久子]

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精選版 日本国語大辞典

もちひと‐おう ‥ワウ【以仁王】
後白河天皇第二皇子。母は権大納言藤原秀成の娘成子。高倉宮と称された。母が摂関家の出でないため親王宣下を得られず、不遇のうちに成長。治承四年(一一八〇)源頼政の勧めで平氏討伐の令旨を発し、諸国同志を糾合しようとしたが、事が発覚して平知盛らに追われ、宇治川の戦いで戦死した。しかし王の発した令旨は諸国源氏勃興の糸口となった。仁平元~治承四年(一一五一‐八〇

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社日本史事典 三訂版

以仁王
もちひとおう
1151〜80
平安後期の皇族
後白河天皇第3皇子。1180年源頼政のすすめで平氏征討の令旨 (りようじ) を発して挙兵したが,平氏の攻撃をうけ園城寺にのがれ,さらに奈良に向かう途中,宇治平等院で死した。しかし王の令旨は諸国の源氏に伝えられ,源平合戦の口火となった。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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