●伊賀者【いがもの】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
伊賀者
いがもの
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デジタル大辞泉
いが‐もの【×伊賀者】
2 江戸幕府に仕えた伊賀出身の郷士。また、その集団。初めは間諜(かんちょう)・斥候に従事。のちには大奥の警護・明(あき)屋敷番などの職についた。伊賀組。伊賀衆。伊賀同心。
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世界大百科事典 第2版
いがもの【伊賀者】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
伊賀者
いがもの
伊賀(三重県)の地侍・郷士(国衆)の出身で、忍びの術をもって、江戸幕府や諸大名に採用された者、およびその家筋の者の総称。伊賀流の者が国外に大量に流出したのは1581年(天正9)の織田信長の伊賀攻めによるが、それ以前にも狭小な国に飽き足らず自ら奉公を他国に求める者が少なくなかった。なかでも千賀(せんが)地の上忍服部(はっとり)氏は天文(てんぶん)年間(1532~1555)半三保長(はんぞうやすなが)が松平清康(家康の祖父)に仕えて以来、徳川氏と密接な関係をもち、その子半蔵正成(まさなり)は、配下の忍びを率いて勇戦を重ね、家康の側近として重用された。なかでも、家康の最大の危機の一つであった1582年(天正10)5月の泉州堺(さかい)からの脱出行、とくに鹿伏兎越(かぶとごえ)に功をたてた。これを契機に、家康は同年6月禄(ろく)1000貫をもって伊賀の郷士200人を召し抱え半蔵に付属させた。これが鳴海(なるみ)伊賀衆とよばれる伊賀組同心のおこりである。それ以後、1615年(元和1)の大坂の陣までの諸役での彼らの奮戦は『伊賀者大由緒記』(1692刊)に詳しい。半蔵正成が1596年(慶長1)死去したのち、子正就(まさなり)が後を継いだが器量に欠け、配下の伊賀同心の上訴事件もあり、1605年(慶長10)ついに改易となった。伊賀同心は足軽組頭大久保忠直(ただなお)ら4人に分割支配せられた。1618年(元和4)年寄12人が大奥御広敷番(おひろしきばん)に任用されたのをはじめ、本来の間諜(かんちょう)・隠密(おんみつ)の役から、御用明屋敷番、山普請方、山里門番などの雑用についた。1633年(寛永10)鉄炮(てっぽう)百人組が編成されると、伊賀組は与力20騎・同心100人をもって、甲賀組、根来(ねごろ)組に次ぎ三番組を称した。翌々年、江戸城拡張工事のため甲州口の拝領屋敷から後の南・北伊賀町に替地移転を命ぜられた。
一方、故地の伊賀は、1608年(慶長13)藤堂高虎(とうどうたかとら)の所領となった。高虎は、大坂夏の陣に伊賀者50人を出兵させ、役後に阿波(あわ)庄右衛門以下20人を正式の忍之衆(しのびのしゅう)に採用している。そのほか、伊賀者は前田利家(としいえ)や福島正則(まさのり)などの大名の下で活躍した。
[渡邉一郎]
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精選版 日本国語大辞典
いが‐もの【伊賀者】
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旺文社日本史事典 三訂版
伊賀者
いがもの
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