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伊達宗城【だてむねなり】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

伊達宗城
だてむねなり
[生]文政1(1818).8. 江戸
[没]1892.2.20. 東京
幕末の宇和島藩主で明治新政府高官。旗本山口直勝の次男。文政 12 (1829) 年宇和島藩主伊達宗紀の養嗣子となり,弘化1 (44) 年藩主襲封。将軍継嗣問題安政5 (58) 年藩主を退いてからも幕政参与として公武合体を提唱し,列国代表をも接見した。明治新政府成立とともに議定に任じられ,以後,外国事務総督,外国官知事などを歴任。明治2 (69) 年7月民部兼大蔵卿就任。同4年4月には欽差全権大臣 (→欽差大臣 ) として清国におもむき,対等の修好条約を結んだ。

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デジタル大辞泉

だて‐むねなり【伊達宗城】
[1818~1892]江戸末期から明治初期の政治家。伊予宇和島藩主として、島津久光山内豊信(とよしげ)らと公武合体推進。維新後は民部卿兼大蔵卿、清国への欽差(きんさ)全権大使などを歴任した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

伊達宗城 だて-むねなり
1818-1892 幕末-明治時代の大名。
文政元年8月1日生まれ。旗本山口直勝の次男伊達宗紀(むねただ)の養子となり,天保(てんぽう)15年伊予(いよ)(愛媛県)宇和島藩主伊達家8代。将軍継嗣問題で一橋慶喜(よしのぶ)を擁立したため,安政の大獄で隠居。以後も島津久光らと公武合体派として活躍。維新後は民部卿,大蔵卿などを歴任。明治4年全権として日清(にっしん)修好条規に調印。明治25年12月20日死去。75歳。

出典:講談社
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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

だてむねなり【伊達宗城】
1818‐92(文政1‐明治25)
伊予国宇和島藩8代藩主。旗本山口直勝の次男で,伊達宗紀(むねただ)(春山)の養子となる。1844年(弘化1)に襲封し,幕末四賢侯の一人に数えられる。宗紀の文政・天保期の藩政改革の成功の後を受けて,積極的に富国強兵策を展開し,また公武合体運動を推進した。44年高野長英,53年(嘉永6)村田蔵六(大村益次郎)を来藩させて軍事の近代化に努め,また威遠流砲術を確立させた。54年(安政1)からは一橋派として活動し,58年井伊直弼によって隠居させられた。

出典:株式会社平凡社
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大辞林 第三版

だてむねなり【伊達宗城】
1818~1892 江戸末期の宇和島藩主。洋学を重んじて藩政を刷新。将軍継嗣問題では一橋派。安政の大獄で隠居したのちも公武合体を推進。1871年(明治4)欽差大使として清に赴き、通商条約を締結した。

出典:三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)

伊達宗城
だてむねなり
(1818―1892)
幕末・明治時代初期の政治家。文政(ぶんせい)1年8月1日、旗本山口相模守(さがみのかみ)直勝の子として江戸に生まれる。1829年(文政12)伊予(いよ)国(愛媛県)宇和島(うわじま)藩主伊達宗紀(むねただ)の養子となり、1844年(弘化1)襲封。藩政改革に努めて殖産興業に成績をあげ、また高野長英(たかのちょうえい)や大村益次郎(おおむらますじろう)を招いて洋式軍備の充実を図った。安政(あんせい)期(1854~60)将軍継嗣(けいし)問題の際には、島津斉彬(しまづなりあきら)、松平慶永(まつだいらよしなが)らと一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)の擁立を画策したが成功せず、安政の大獄を期に隠居し、封を嗣子(しし)宗徳(むねのり)に譲った。1862年(文久2)の島津久光(しまづひさみつ)の公武合体運動に呼応して中央政界に進出、1863年12月一橋慶喜、松平慶永、松平容保(まつだいらかたもり)、山内豊信(やまうちとよしげ)らと朝議参与に任命されたが、横浜鎖港問題で慶喜と衝突し反幕色を濃くした。
 1867年(慶応3)12月新政府の議定(ぎじょう)に就任、外国事務総督、外国官知事として政府発足当初の外交責任者を務めた。1869年(明治2)民部卿(みんぶきょう)兼大蔵卿、翌1870年7月の民蔵分離によって、大蔵卿専任。1871年4月欽差(きんさ)全権大臣に任命され清国(しんこく)差遣、7月29日大日本国大清国修好条規(日清修好条規)を締結した。帰国後、麝香間祗候(じゃこうのましこう)、外国貴賓の接遇にあたった。明治25年12月20日没。[毛利敏彦]
『兵頭賢一著『伊達宗城公傳』(2005・創泉堂出版) ▽楠精一郎著『列伝・日本近代史――伊達宗城から岸信介まで』(朝日選書)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

だて‐むねなり【伊達宗城】
幕末の伊予宇和島藩主。幼名亀太郎。通称知次郎・兵五郎。号は藍山。徳川慶喜の擁立と安政五か国条約調印を非難したこととで譴責され隠居。島津久光、山内豊信らと公武合体策を推進した。明治維新後民部卿兼大蔵卿、清国への欽差全権大使、修史館副総裁となる。文政元~明治二五年(一八一八‐九二

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旺文社日本史事典 三訂版

伊達宗城
だてむねなり
1818〜92
幕末・明治前期の政治家
伊予宇和島藩主。将軍継嗣問題で一橋派に属し,安政条約調印を非難し,安政の大獄で処罰された。のち公武合体を推進。1867年の王政復古後,議定・民部卿・大蔵卿などを歴任し,'71年には全権大使として清国におもむき日清修好条規を締結した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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