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佐賀藩【さがはん】

デジタル大辞泉プラス

佐賀藩
肥前国、佐賀(現:△佐賀県佐賀市▽)を本拠地とした外様の大藩。戦国大名竜造寺氏豊臣秀吉により旧領を安堵されたことに始まるが、重臣の鍋島氏に実権が渡ったことで、御家騒動(鍋島騒動)が勃発。のちに歌舞伎講談題材となり、“化け猫騒動”として知られるようになった。支藩小城(おぎ)藩、鹿島藩蓮池藩がある。鍋島氏の支配は12代にわたり続き、廃藩置県を迎えた。

出典:小学館
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藩名・旧国名がわかる事典

さがはん【佐賀藩】
江戸時代肥前(ひぜん)国佐賀郡佐賀(現、佐賀県佐賀市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は弘道館。1607年(慶長(けいちょう)12)、戦国大名の竜造寺氏断絶に伴い、その重臣であった鍋島直茂(なべしまなおしげ)が実権を握って主家の所領約35万7000石を継承した。この佐賀藩の成立期に起きた御家騒動(鍋島騒動)は有名。以後、鍋島氏の支配は明治維新まで12代続き、その間に支藩として小城(おぎ)藩、鹿島藩、蓮池藩が設けられた。42年から長崎警備を福岡藩とともに1年交代で担当したが、そのための財政負担が重く、1732年(享保(きょうほう)17)の享保の飢饉で多数の餓死者を出したことを契機に藩財政は窮乏した。1808年(文化5)のフェートン号事件によって長崎警備の弱体化が露呈し、幕府から処分を受けた。11代藩主の直正(なおまさ)は、役人の削減や小作料の支払猶予・免除、陶器・茶・石炭などの殖産興業による藩政改革に取り組み、財政の改善をはかった。また西洋の軍事技術の導入を進め、50年(嘉永(かえい)3)に反射炉を建設して艦隊用の大砲(アームストロング砲)の鋳造を開始、さらに蒸気機関の製造にも着手し、65年(慶応(けいおう)1)には蒸気船を完成するに至った。こうした政策によって、幕末には国内屈指の軍事力を有する雄藩となった。大隈重信(おおくましげのぶ)江藤新平(えとうしんぺい)副島種臣(そえじまたねおみ)佐野常民(さのつねたみ)らを輩出。71年(明治4)の廃藩置県で佐賀県となり、その後、伊万里(いまり)県、佐賀県、三潴(みづま)県、長崎県を経て、83年に現在の佐賀県となった。◇肥前藩鍋島藩ともいう。

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

さがはん【佐賀藩】
肥前国(佐賀県)佐賀に藩庁を置いた外様大藩。戦国期に肥前地域は竜造寺隆信が一応支配したが,1584年(天正12)の島原での敗死により,竜造寺氏から鍋島氏へと実権が移った。鍋島直茂は実権確立に際して豊臣秀吉や徳川家康との関係を強め,統一権力の力を利用しながら領内の統御を進めた。関ヶ原の戦では西軍に属したため,戦後不利な立場に置かれたが,閑室元佶のとりなしにより筑後柳河の立花宗茂の攻撃などを条件に領土が安堵された。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

佐賀藩
さがはん
肥前(ひぜん)藩ともいう。肥前国佐賀を領した外様(とざま)大藩。石高(こくだか)35万7000石余。1590年(天正18)戦国大名龍造寺(りゅうぞうじ)氏が豊臣(とよとみ)秀吉から所領安堵(あんど)されたのに始まり、重臣鍋島直茂(なべしまなおしげ)が主家の後見となる。1607年(慶長12)龍造寺氏断絶により、鍋島氏が藩主となった。以来、勝茂(かつしげ)、光茂(みつしげ)、綱茂(つなしげ)、吉茂(よししげ)、宗茂(むねしげ)、宗教(むねのり)、重茂(しげもち)、治茂(はるしげ)、斉直(なりなお)、直正(なおまさ)、直大(なおひろ)の12代続いた。支藩に小城(おぎ)藩、蓮池(はすのいけ)藩、鹿島(かしま)藩がある。明暦(めいれき)期(1655~58)に藩法「鳥子(とりのこ)帳」が編纂(へんさん)され、以後、それが藩政の基軸をなした。また、長崎に近接しているため、長崎御番などの任にあたり特殊な位置を占めた。それゆえ、藩財政は早くから窮乏をみせた。
 1732年(享保17)の西国地域の飢饉(ききん)の被害は佐賀藩ではとくにひどかった。1731年の領内総人口37万1956人が、1734年には29万0210人に激減したのも、飢饉の影響とみられる。1772年(安永1)に開始された藩政改革により「明和(めいわ)御改正記録」が編纂され、より詳細な藩法が作成された。この藩政改革のおりに設置された六府方(ろくふかた)(山方里山方(やまかたさとやまかた)、牧方、陶器方、搦(からみ)方、貸付方、講(こう)方)は殖産興業の基本的役方となった。
 文化・文政期(1804~30)に深まった矛盾を緩和するため、1842年(天保13)に加地子(かじし)(小作料)を10か年間猶予する政策が出されるなどの藩政改革が実施される。当初は藩借銀の整理や郷村復興に力が注がれるが、1844年(弘化1)に火術方を設置したように、軍事改革に重きが置かれるようになる。1850年(嘉永3)に築地(ついじ)(佐賀市長瀬町)に反射炉を築造し、大砲の鋳造を開始する。また、1858年(安政5)には海軍所を設け、翌年には精煉(せいれん)方で火薬製造に着手し、1865年(慶応1)には蒸気船凌風(りょうふう)丸を完成させる。このように、佐賀藩が行った軍事改革は諸藩をぬきんでるものであったが、改革の主導権が藩主鍋島直正にあっただけに、政治路線では反幕府としての立場に一定の限界がみられた。明治初年に江藤新平(しんぺい)や大隈重信(おおくましげのぶ)が維新政府のなかで重い役割を演じた。なお、藩士修養の書として知られる『葉隠(はがくれ)』は、3代藩主光茂の書物役であった山本常朝の談話を筆録したものである。また、幕末に劇化された「猫騒動」は、藩政初期における龍造寺家再興運動を反映している。1871年(明治4)廃藩。佐賀県、伊万里(いまり)県、佐賀県、三潴(みずま)県、長崎県を経て現在の佐賀県となった。[長野 暹]
『藤野保編『佐賀藩の総合研究』(1981・吉川弘文館)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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佐賀藩
さがはん
肥前藩

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