●光孝天皇【こうこうてんのう】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
光孝天皇
こうこうてんのう
[没]仁和3(887).8.26. 京都
第 58代の天皇 (在位 884~887) 。名は時康,小松帝とも称する。仁明天皇の第3皇子,母は贈皇太后藤原沢子。即位以前に,常陸太守,中務卿,上野太守,大宰帥,式部卿などを歴任し,元慶8 (884) 年即位。これは太政大臣藤原基経の奏請によるものであった。そのため以後,天皇は政治を基経を経て奏上させ,これが関白の初めとなった。陵墓は京都市右京区宇多野馬場町の後田邑陵。
出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
デジタル大辞泉
こうこう‐てんのう〔クワウカウテンワウ〕【光孝天皇】
出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
デジタル版 日本人名大辞典+Plus
光孝天皇 こうこうてんのう
天長7年生まれ。仁明(にんみょう)天皇の第3皇子。母は藤原沢子。陽成(ようぜい)天皇の譲位をうけて,元慶(がんぎょう)8年55歳で即位。政治の実権は先帝時代からひきつづき藤原基経(もとつね)がにぎり,実質上の関白として天皇もすべてを基経に諮問した。在位3年にして,仁和(にんな)3年8月26日死去。58歳。墓所は後田邑陵(のちのたむらのみささぎ)(京都市右京区)。諱(いみな)は時康(ときやす)。別名に小松帝。
【格言など】君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ(「小倉百人一首」)
出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。
日本大百科全書(ニッポニカ)
光孝天皇
こうこうてんのう
(830―887)
第58代天皇(在位884~887)。仁明(にんみょう)天皇第3皇子。母は従(じゅ)五位上紀伊守(きいのかみ)藤原総継(ふさつぐ)の女(むすめ)沢子(たくし)。諱(いみな)は時康。文徳(もんとく)、清和(せいわ)、陽成(ようぜい)の歴代3帝に仕え、一品式部卿(いっぽんしきぶきょう)となっていたが、宮中の乱脈粛正の意図をもって陽成天皇が廃されたあと、藤原基経(もとつね)の推挙により即位した。基経とは外戚(がいせき)関係になく、才識、人品を見込まれた擁立であり、基経の公正な態度に世人が感服したという。天皇は基経の推戴(すいたい)の功に報いるため、「奏すべき事、下すべき事、必ず先(ま)ず諮稟(しりん)せよ」との勅書を下し、関白の文字はないものの、事実上関白の職を命じた。皇嗣(こうし)についても基経にゆだねたが、基経は天皇の意をくみ、源定省(さだみ)(宇多(うだ)天皇)を推薦した。
[森田 悌]
出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
精選版 日本国語大辞典
こうこう‐てんのう クヮウカウテンワウ【光孝天皇】
出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
旺文社日本史事典 三訂版
光孝天皇
こうこうてんのう
出典:旺文社日本史事典 三訂版
執筆者一覧(50音順)
金澤利明 竹内秀一 藤野雅己 牧内利之 真中幹夫
Copyright Obunsha Co.,Ltd. All Rights Reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
「光孝天皇」の用語解説はコトバンクが提供しています。
●光孝天皇の関連情報
関連キーワード
| 仮令・縦・縦使| 以て| 原油| 万多親王| 原油| アンスガー| い| 如何にしてか| 況や| 犯・侵・冒|