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児島高徳【こじまたかのり】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

児島高徳
こじまたかのり
南北朝時代初期に活躍した武将備前の人。備後三郎と称する。元弘の乱 (1331) に後醍醐天皇に応じて挙兵天皇隠岐国へ流されるとき,途中で天皇を迎えようとしたが,天皇はすでに院庄 (いんのしょう) に入り,事ならなかったため,行在所庭前の桜の大木に「天,勾践 (こうせん) ヲ空シウスルコト莫カレ,時ニ茫蠡 (はんれい) 無キニシモ非ズ」と書いて忠誠を表わしたという。建武中興崩壊後も南朝方として戦い,正平7=文和1 (52) 年までの活躍は『太平記』に記されているが,高徳実在には疑問がもたれている。また『洞院公定公記』に「文中3=応安7 (74) 年4月 28~29日頃死んだ」と記されている『太平記』作者小島法師児島高徳ではないかとの説もある。

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デジタル大辞泉

こじま‐たかのり【児島高徳】
南北朝時代の武将。備前の人。元弘の変で隠岐(おき)へ流される途中の後醍醐天皇の行在所に忍び込み、桜の幹に「天莫勾践、時非范蠡」と記して天皇を励ましたといわれるが、その事跡は「太平記」に述べられるのみで、実在が疑問視されている。→天勾践(こうせん)を空しゅうすること莫れ時に范蠡(はんれい)無きにしも非ず

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

児島高徳 こじま-たかのり
?-? 鎌倉-南北朝時代の武将。
児島範長(のりなが)の子。備前(岡山県)の人。「太平記」によれば,隠岐(おき)に流される途中の後醍醐(ごだいご)天皇を救出しようとしたが失敗。正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年(1333)隠岐を脱出した天皇をむかえ,京都,越前(えちぜん),伊予(いよ)などに転戦した。文和(ぶんな)元=正平(しょうへい)7年後村上天皇の勅使として東国の南朝方に挙兵をうながした。通称は備後(びんご)三郎。
【格言など】天勾践(こうせん)を空しゅうすること莫(な)かれ。時に范蠡(はんれい)無きにしも非ず(「太平記」)

出典:講談社
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世界大百科事典 第2版

こじまたかのり【児島高徳】
南北朝時代の前半期に南朝方として活躍した武将。生没年不詳。備前の邑久郡の人で,備後守範長の子という。1331年(元弘1)の元弘の乱に際して後醍醐天皇に呼応して兵をあげ,のちに足利尊氏と後醍醐天皇が抗争するにいたっても一貫して南朝方につき,備前,播磨,越前,伊予などの各地に転戦。45年(興国6∥貞和1)信濃に移り,剃髪して志純(しじゆん)と号したと伝えられる。彼の行動については《太平記》が伝えるのみであり,そのために実在の人物ではないとする学説もあったが,現在では実在説が有力とみられる。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

児島高徳
こじまたかのり

生没年未詳。南北朝時代の武将。和田備後守範長(びんごのかみのりなが)の子。三宅(みやけ)備後三郎と称し備前(びぜん)(岡山県)に住したという。元弘(げんこう)の変(1331)に際し後醍醐(ごだいご)天皇に応じ備前に挙兵した。乱後隠岐(おき)に配流される天皇を途中で奪おうとして失敗、のち天皇が伯耆(ほうき)船上山(せんじょうさん)(鳥取県琴浦(ことうら)町)に脱出するや、一族を率い馳(は)せ参じた。建武(けんむ)政権崩壊後も南朝側として行動し、1343年(興国4・康永2)12月には、丹波(たんば)守護代荻野朝忠(おぎのともただ)と共謀し挙兵せんとしたが成功せず、ついで脇屋義治(わきやよしはる)(義助(よしすけ)の子)を大将としてひそかに入洛(にゅうらく)し足利尊氏(あしかがたかうじ)らを討とうとしたが露見、義治とともに信濃(しなの)(長野県)に逃れた。これ以後その活動がみえなくなる。これらの事跡は『太平記』にしかみえず、その実在が問題とされている。

[小要 博]

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精選版 日本国語大辞典

こじま‐たかのり【児島高徳】
南北朝時代の武将。範長の子。姓は三宅。通称備後三郎。備前の人。元弘の乱で隠岐に流される後醍醐天皇を途中で救おうとして失敗、院の庄の行在所の桜の木に「天莫勾践、時非范蠡」と記したという。のち南朝に仕えて諸方を転戦。実在したらしいが「太平記」に描かれたその活動を確認することは難しい。生没年未詳。

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