●内裏【だいり】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
内裏
だいり
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デジタル大辞泉
うち‐うら【内裏】
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だい‐り【内裏】
2 「内裏雛(だいりびな)」の略。
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世界大百科事典 第2版
だいり【内裏】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
内裏
だいり
宮城(大内裏)の中で天皇の住む一画。皇居。難波(なにわ)宮、藤原宮、長岡宮、平城宮などは発掘調査されているが、平安宮はほとんど未調査である。しかし各種の古図や江戸時代の有職故実(ゆうそくこじつ)家裏松光世(うらまつみつよ)(固禅(こぜん))が残した詳細な考証書『大内裏図考証(だいだいりずこうしょう)』などによって殿舎の配置・規模などはある程度わかる。内裏は平城宮までは朝堂院(大内裏の正庁)の真北にあり、長岡宮、平安宮では朝堂院のやや東に移された。これは公的な朝堂院と、天皇の私的な居所を分離したものであろう。しかし、律令(りつりょう)体制の変質によって、この平面の変化がかえって内裏を政治の中心的な場とし、朝堂院は儀式の場としての性格を強めることになった。
平城宮の内裏として確認されているのは、宮城東寄りの壬生(みぶ)門――朝堂院の北に位置し、第二次内裏といわれた所である。築地(ついじ)回廊に囲まれた、1辺約180メートルの正方形の地域で、南側には東西9間、南北5間の正殿(平安宮の紫宸(ししん)殿にあたる)などを回廊で囲んだ一画があり、公の宴などが催されたりした場所である。北側は正殿より少し小さめの殿舎の周囲に建物が配され、天皇が起居する私的な区画であった。正殿などの殿舎は檜皮葺(ひわだぶ)きで板敷きのものが中心となっていた。内郭(築地回廊が囲む区域)の外側をさらに築地で囲み、これを外郭という。広い意味の内裏はこの全体を含み、内郭と外郭の間に、天皇の日常生活と関係の深い官衙(かんが)(官庁)があった。
長岡宮(京都府向日(むこう)市)では、朝堂院の東方に内裏が確認されている。平城宮と同様外郭が存在しており、内郭は1辺約160メートルの正方形で築地回廊に囲まれ、その南中央に正殿が位置していた。正殿などの柱は抜き取られて、平安京の造営に使用されたらしい。
平安宮の内裏は大内裏の中央東寄り、朝堂院の北東にあった。築地の外郭は東西113丈(約342メートル)、南北100丈(約303メートル)ともっとも大きい。東部に築地回廊で囲まれた内郭、その北に蘭林坊(らんりんぼう)、桂芳(けいほう)坊、華芳(かほう)坊、西に中和院(ちゅうかいん)、内膳司(ないぜんし)、采女町(うねめまち)があった。内郭は東西57丈(約173メートル)、南北72丈(約218メートル)で、南側中央に位置する紫宸殿と、その南にある4殿が公的な部分であり、北側に清涼(せいりょう)殿など天皇の私的な殿舎があった。その北が皇后・女御(にょうご)などの居所がある後宮で、建物は檜皮葺き、素木(しらき)(白木=木地のままの木材)造、板敷きであった。このように南北に公私を分け、左右対称に殿舎を配する形態は平城宮でもみられたが、各建物を廊で結んだのが平安内裏の特色である。
794年(延暦13)の平安遷都でつくられた内裏は、約160年後の960年(天徳4)に全焼、ただちに木工寮(もくりょう)、修理職(しゅりしき)と27か国に造営を分担させ、翌年完成した。その後、火災の頻発により、一条殿などの里内裏(さとだいり)が現れ、平安後期になると天皇は日常は里内裏に住み、儀式のときに内裏に帰るようになり、初めから里内裏として造営される邸宅もあった。
鎌倉時代も同様で、本来の内裏は1227年(安貞1)焼亡したのちは再建されていない。建武(けんむ)の新政で大内裏再建が計画されたものの中止され、南北朝以後は鎌倉末期につくられた土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)が、内裏として固定する。ここは規模も小さく、構成なども平安内裏とはかなり異なっていた。近世に入って規模が拡大され、江戸後期の1788年(天明8)の火災後、紫宸殿、清涼殿などが平安内裏を復原して造営され、1854年(安政1)に焼亡したがすぐ再建され、1869年(明治2)の東京遷都まで皇居であった。現在の京都御所がこれである。
[吉田早苗]
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精選版 日本国語大辞典
うち‐うら【内裏】
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旺文社日本史事典 三訂版
内裏
だいり
禁裏・禁中ともいう。
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執筆者一覧(50音順)
金澤利明 竹内秀一 藤野雅己 牧内利之 真中幹夫
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内裏
ないり
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